結局4回、南高麗村になる前の上直竹(かみなおたけ)村に通って、先祖がわかった(6月15日)。3回目(6月1日)は全部で三軒ある苗字「F」の家を訪れ、聞き取り調査をした。手がかりは明治の人「F」角五郎と墓の印象。訪れたうちの二軒は墓を見せていただいた。その二つとも、昔の印象と違う、林の奥の方ではなく、もっと道端に近かった。三軒目(古い家)では先祖にそのような人はいない、と言われた。ある家で「お寺に行けばわかるかも知れない」と言われた。山一つ隔てた成木(なりき)の名刹「安楽寺」である。
若いころ(20代)、各地の「お寺めぐり」をしたことがある。四国札所八十八か所、西国三十三観音、坂東三十三観音、秩父三十四観音、だけでなく、鎌倉など、いろいろなところを訪れた。青梅にもいくつか名刹がある。青梅の地名発生の金剛寺、かつてつるべ井戸のあった天寧寺、塩船観音・・・、それらに劣らず由緒ある安楽寺が先祖の菩提寺だった。成木の名称は安楽寺にあった「鳴る木」による。詳しくはネットで調べられたい。
安楽寺に行き、「過去帳」を見せてもらった。初めてである。さすが坊さん、字がうまい。日付順に戒名、俗名、住所、など書かれている。私の取り寄せた「戸籍」では二男鈴木長吉は明治四年生まれ。その父「F」角五郎はおそらく明治時代に亡くなったのではないだろうか?(後から大正9年とわかる)その場で見せてもらった過去帳は大正から始まっていた。「もっと古いのはありませんか?」「今ちょっと見当たりません」ということで、あとから連絡していただくことにした。その日の夕方、現在の子孫の名前が知らされた。
前々から、先祖を確認したかった。何のためか。ご先祖様に向かって「何とかこれまで生きて来れました、今あるのはご先祖があってのことです、などなど」、心から手を合わせたいからである。この年になると両親の位牌や墓に手を合わせるだけではすまない気がしてくる。遅かったかもしれない(ご先祖様、申しわけありませんでした、不孝者の子孫で)。
母系の先祖は母の実家が本家であり、その先祖代々の方々への挨拶はよくしていた。父系はとんとご無沙汰だった。でもスヴェーデンボリを学ぶと、父系のほうがはるかに重要に思えてくる。
四回目の今度は見つかった。一度「そんな人はいない」と言われた古い家だった。前回、私が訪れたあと、多少話題になったようだった。80過ぎのおばあちゃんと話したら、私の父の長兄がよく泊まりに来ていた、など、話はぴったりあった。家に上がり、仏壇に線香をあげた。長押には「槍」がかかっている。太い柱は「ちょうなけずり」であった。この節、「ちょうな目」の柱は珍しい(たいていの人が「ちょうな」を知っていると思っていた、聞いてみると、女房は知らず、若い者はまず知らなかった。「あれ」と思った。時代が変わったんだね)。聞けば、おばあちゃん嫁入り前からの家(築100以上でしょう)とのこと、「建て替える金がなかったんですよ」。「それでいいんですよ」、と改築しなかったことを心から喜んだ旧家であった。
仏壇前に、おばあちゃんの夫の写真があった。私が35年前に会った人だとすぐわかった。10年前に77歳で亡くなっていた。その人との関係を家に帰ってよく調べたら「はとこ」にあたる。「いとこ」の子どうしであり、この先の関係を表わす言葉はどうも存在しないようだ。すなわち親戚(付き合い)のぎりぎり外枠。親等で言えば「(血族)六親等」。
嫁さんに墓へ案内してもらった。「静かな山中の道端にあった」との印象は崩れた。道は舗装され、幅も大きくなっていた(何のことはない、この道なら何度も通っていた)。道をやや外れ、草むらをちょっと上がると墓どころ。これは印象と変わらなかった。やはり、手を合わせる。
「また、改めて来ます」と言い残し、自分の先祖の地がまだまだ田舎の風情たっぷりなこと、そして旧家だったことなど、やっぱり田舎者の自分にふさわしかった、となぜか心豊かとなって帰った。
日: 2009年6月17日
スヴェーデンボリ協会へ、ミスプリ指摘とその返事
『天界と地獄』595番の原文中(第3版)にperpetuusがperptuusとミスプリされており、原典発行元のスヴェーデンボリ協会(The Swedenborg Society)へその旨、メールで連絡しておきました。
つい先ごろ(16日夕)、James Wilsonから返事のメールが来ました。それによると、指摘の御礼とともに、第4版を来年に出版する予定で、John Elliottのもと、校正など進めているそうです。私の指摘の個所もすでにエリオットによって直してあるとのことでした。