バイクに乗って、南高麗村(?)へ

 私はバイクに乗る。今乗っているのは「ヤマハ・ドラッグスター・クラシック400」である。購入したのは3年半前。その前はヤマヤ・マジェスティ、しかしさかのぼればきりがない。
 定年退職を控え、60歳を期して、自分への褒美としてバイクを新調しようと思っていたら、息子に「お父さん、すぐ買おう」とせかされ(自分も乗りたいから)、1年前倒しの59歳の誕生日祝いとして買った。
 ドラッグスターはアメリカンタイプ、このところもずっとモデルチェンジはしない。色は毎年変える。それで私の所有しているのは「インペリアル・ブラウン」、気にいっている。
 遠出をしないで、近場を乗り回していたら、バッテリーを2度あげてしまった。それでやや遠出を兼ねて「ルーツ」を訪れる、というより探ることにした。
 私は都民ではあるが、田舎の人間である。母の実家は青梅市の昔の小曽木村である。子供のころ母によく連れられて行った。大きくなり、30代から40代中ごろまで山歩きが趣味だった(そのうち話すかもしれない)。山は田舎にある。山に登る前、下ったあとの田舎の風景がなんともしっくりと心にしみ込む。女房に「田舎に住もう」というと、すぐ断られる、本籍が港区の都会人である。
 自分の先祖がどこに住んでいたか、みなさんご存知なのだろうか? 私は瑞穂町で生まれ、育った。父もそうである。しかし、祖父は「入夫」したのであった。入夫とは聞きなれない言葉であろう。ルーツを調べたいと思い、祖父「鈴木長吉(明治4年生まれ)」の戸籍を取ってみたら、そう書いてあった。辞書の定義では「民法旧規定で、戸主である女性と結婚してその夫となること」である。
 婿であることは知っていた。結婚したとき、祖母「鈴木クニ」は本家から(財産など分けてもらい)独立した戸籍主となっていたのである。クニは商売上手であり、繁盛した(今は没落し、家屋敷は他人のものである)。長男が上級学校へ進んだが、そこで「遊び」を覚えてしまった。七男(昔は大家族です)だった父はそのため、進学させてもらえなかった。
 私が20代後半のある日(35,6年前となるのか)、「田舎に行ってみたい」という父を車に乗せ、父の言う「間野」の親戚を訪れた。間野とは現在、飯能市上直竹にある部落名である。今となってはそこが長吉の実家にあたる家だったか定かではない(これからわかるはず)。その親戚の苗字はちょっと差しさわりがありそうなので伏せ「F」としておく。そのとき墓も見せたもらい(田舎は住んでいるところから遠くないところにその家専用の墓どころをもつ)、10数代続いているような話を聞いた。
 さて、戸籍には「・・・入間郡南高麗村大字上直竹下分・・・」とある。5月の終わりごろ、バイクに乗り、道に迷いながらも上直竹についた。それまで原市場(ここに親戚がいる)と下直竹を結ぶ道は何度も通ったことがある(秩父に行った帰りに名栗村を通り、山王峠を越えて、青梅へ来ることなどよくしていた)。
 しかし、山一つ隔てた上直竹は二度目だった。気持ちのよい田舎道を進み、間野黒指(まのくろざす)まで行き、雰囲気がよいので、てっきりここが故郷だと思い込んだ(Fは上分には一軒、下分には三、四軒あるとのことも聞いた)。
 すぐ2日後に今度は、女房・息子とともに車で、上分に行き、声をかけた人がちょうどFの親戚であり、じかに話を聞き、墓も見せてももらったが、どうも昔の印象と違う。
 家に帰って戸籍で確認したら、「下分」であり、そこは「上分」だった。出直し、もう一度、行ったが、長くなったのでいったんここで切る。別の話をしておく。
 南高麗村は青梅市に隣接していた。明治22年にいくつかの村が合併してできて昭和18年に飯能町(?)と一緒になるまであった。岩淵という部落も含み、ここには「岩井堂」がある(親戚がいる)。岩井堂とは、そこに祭ってあった観音像が川の氾濫で流され、その像が浅草の漁師の網に掛かった。それが今の浅草観音。
 山奥の部落「間野」の起こりは、時は天正18年(じゃわかりませんよね)、豊臣秀吉が天下統一をした。すなわち1590年に関東小田原の北条氏を滅ぼした(なお、1600年に関が原の戦い、1603年に江戸幕府が始まる)。そのときの出城が八王子。圧倒的な豊臣軍の前に一日で落城した八王子の武士たちが青梅の金子一族をたよって逃げのびた。そこで隠れ住んだがよかろうと与えられたのが成木と間野(どちらも秘境といえそうな山間にある、暮らしは大変だったでしょうね)。
 私の先祖Fが間野に住み続けて10数代なら、30×14=420で、ルーツは(豊臣勢に蹴散らかされた)落人ということになる。その先はわかりません。(スヴェーデンボリのラテン語とは無関係で恐縮です。根が雑談好きなので、お許しください。私は雑談の大先生でした)

原典講読『天界と地獄』no. 597.

       [LXIII.]
     QUOD HOMO IN LIBERO SIT PER AEQUILIBRIUM INTER CAELUM ET INFERNUM.
     天界と地獄の均衡によって人間に自由があること
(1) 原文
597. Supra actum est de aequilibrio inter caelum et infernum, et ostensum quod aequilibrium illud sit aequilibrium inter bonum quod e caelo et malum quod ex inferno; ita quod sit aequilibrium spirituale, quod in sua essentia est liberum. Quod aequilibrium spirituale in sua essentia sit liberum, est quia est inter bonum et malum, ac inter verum et falsum, et haec sunt spiritualia: quapropter posse velle bonum aut malum, et cogitare verum aut falsum, ac eligere unum prae altero, est liberum, de quo hic agitur. Hoc liberum datur unicuivis homini a Domino, nec usquam aufertur; est quidem ex sua origine non hominis sed Domini, quia est a Domino; at usque cum vita donatur homini sicut suum; et hoc ex causa, ut homo possit reformari et salvari; nam absque libero nulla reformatio et salvatio. Quisque ex intuitione aliqua rationali videre potest, quod in hominis libero sit cogitare male vel bene, sincere vel insincere, juste vel injuste; et quoque quod possit loqui et agere bene, sincere et juste, sed non male, insincere et injuste propter leges spirituales, morales et civiles, per quas externum ejus tenetur in vinculis. Ex his patet, quod spiritus hominis, qui est qui cogitat et vult, sit in libero; non ita externum hominis, quod loquitur et agit, nisi hoc sit secundum supradictas leges.
(2) 直訳
Supra actum est de aequilibrio inter caelum et infernum, et ostensum quod aequilibrium illud sit aequilibrium inter bonum quod e caelo et malum quod ex inferno; 上に扱われた(述べられた)、天界と地獄の間の均衡について、そして示された、その均衡は天界からのもの善と地獄からのもの悪の間の均衡であること。
ita quod sit aequilibrium spirituale, quod in sua essentia est liberum. このように(したがって)霊的な均衡であること、その本質は自由であること。
Quod aequilibrium spirituale in sua essentia sit liberum, est quia est inter bonum et malum, ac inter verum et falsum, et haec sunt spiritualia: 霊的な均衡がその本質では自由であることは、善と悪の間であるからである、そして真理と虚偽、そしてこれらは霊的なものである。
quapropter posse velle bonum aut malum, et cogitare verum aut falsum, ac eligere unum prae altero, est liberum, de quo hic agitur. それゆえ、善または悪を意志すること、また真理または虚偽を考えること、そして一つをもう一つよりも選ぶことができることは自由である、そのことについてここで扱われる。
Hoc liberum datur unicuivis homini a Domino, nec usquam aufertur; この自由は主により人間のそれぞれに与えられている、決して取り去られもしない。
est quidem ex sua origine non hominis sed Domini, quia est a Domino; 確かに、その起源から人間の〔もの〕でなく主の〔もの〕である、主からのものであるので。
at usque cum vita donatur homini sicut suum; しかし、それでも、いのちとともに、人間に自分のものであるかのように与えられている。
et hoc ex causa, ut homo possit reformari et salvari; そしてこのことは理由から、人間が改心☆され、救われることができるように。
☆ 動詞reformoは「新しい形を与える、造り直す」という意味です。教会なら「改革する」人間なら何でしょう? 「改心する」でしょうか? (4) reformatio, reformoの訳語について、を参照。
nam absque libero nulla reformatio et salvatio. なぜなら、自由なしに改心と救いはないから。
Quisque ex intuitione aliqua rationali videre potest, quod in hominis libero sit cogitare male vel bene, sincere vel insincere, juste vel injuste; だれでも何らかの理性的な熟考(熟慮)から見ることができる、人間の中に自由があること、悪くまたは善く考えること、誠実(正直)にまたは不誠実(不正直)に、公正にまたは不正に。
et quoque quod possit loqui et agere bene, sincere et juste, sed non male, insincere et injuste propter leges spirituales, morales et civiles, per quas externum ejus tenetur in vinculis. そしてまた、善く、誠実に、公正に話し、行動することができる、しかし、悪く、不誠実に、不正に〔話し、行動でき〕ない、霊的な、道徳的な、市民的な律法のために、それらによって彼の外なるものは抑制(束縛)の中に保たれる。
Ex his patet, quod spiritus hominis, qui est qui cogitat et vult, sit in libero; これらから明らかである、人間の霊は、それは考え、意志するものである、自由の中にあること。
non ita externum hominis, quod loquitur et agit, nisi hoc sit secundum supradictas leges. このようではない〔自由の中にない〕、人間の外なるものは、それは話し、行動するもの〔である〕、もし、このことが上述の律法にしたがっていないなら。
(3) 訳文
 前に、天界と地獄の間の均衡について扱われ、その均衡は天界からの善と地獄からの悪の間の均衡であること、したがって霊的な均衡でり、その本質は自由であることが示された。霊的な均衡がその本質では自由であることは、善と悪の間、また真理と虚偽の間の均衡であり、これらは霊的なものであるからである。それゆえ、善または悪を意志すること、また真理または虚偽を考えること、そして一つを他よりも選ぶことができることは自由であり、ここで述べているのはそのことについてである。この自由は主により人間のそれぞれに与えられており、決して取り去られない。確かに、主からのものであるので、その起源からして、人間のものでなく主のものである。しかしそれでも、人間に、いのちとともに、自分自身のものであるかのように与えられている。このことの理由は、人間が改心し、救われることができるためである。なぜなら、自由なしに、改心と救いはないから。だれでも、何らかの理性的な熟慮から、人間の中に悪くまたは善く、誠実にまたは不誠実に、公正にまたは不正に考え、そしてまた、善く、誠実に、公正に、話し、行動することができる自由があること、しかし、外なるものを抑制の中に保つ、霊的で、道徳的で、市民的な律法のために、悪く、不誠実に、不正に、話し、行動することはできないことを知ことができる。これらから、考え、意志するものである人間の霊は自由の中にあることが明らかである。人間の外なるものは、それは話し、行動するものであるが、前述の律法にしたがっていないなら、自由の中にはない。
(4) reformatio, reformoの訳語について
 スヴェーデンボリのによれば、人間はほんとうの人間になるために、霊により新しく生まれなければなりません。具体的にはreformatioとregeneratio「再生」です。
 さて、まずは他の人(といっても二人)の訳語はどうでしょうか。柳瀬訳の「改良」、これでよいのでしょう、しかし、品質改良のイメージがしてしまい、私はやや変に感じます。
 次に長島訳の「自己改革」(ただし、最初期の翻訳である、『天界と地獄』のこの個所は「改善」)、これはよい訳語かもしれません。
 どちらも「改~」としていて、私も「改~」は賛成です。「改める」という言葉を使うべきでしょう。この原意は直訳部分で述べました。英語ではreform, reformationです。家ならリフォームです。法律なら改正、宗教なら改革・・・、それで問題は「心」です。心をリフォームすることに対する訳語は何でしょうか?
 私は一時期、「改めて造り直す」ことから、「改造」としたことがあります。しかし、これでは「内閣改造」のイメージが強すぎます。
 それで「心」を「改める」のだから、わかりやすく「改心」としました。しかし、これにも欠点があります。あまりに「悔い改め」のイメージに近いからです。スヴェーデンボリ神学では最初にpoenitentiaがあって、それにreformatio, regeneratioと続きます。
 日本語の「改心」(今までのことを反省し、心を改め正すこと)とは、意味合いが違いますが、再生の過程としての「改心」であることをふまえ、この言葉を使うのが一番よいかと思っています。