この連載の少し前から、「原文」を準備し始め、ここで全部がやっと終了しました。一つ一つ打ち込むのではなく、「The Heavenly Doctrines」というサイトからダウンロードしています。このサイトは検索ができるのでよく利用します。やや体裁を整えるだけで済めば問題ないのですが、実は大変でした。
そこにアップロードされているものは最新版のラテン原典で、私の所有するもの同じですが、もちろんスキャナーで読みとったもののようです。するとそこにはエラーがあります。一番多かったのは句読点の消滅です。これはほぼ全部の文段で数個見つかりました。次が句読点の変化です。カンマがピリオッドに変わったりしています。何と綴りが変化していたものまでありました。この理由はわかりません。それで、そうとう注意深く、本となっている原典と照合しながら原文の準備をしていました。それで皆さんも同サイトのラテン原文に絶対の信用は置かないでください。
毎日3時間以上費やして、ここで終えました。この間、「レキシコン」の翻訳はストップしたままでした。ここで「レキシコン」に戻れます。また、こうした文章も書けるでしょう。
月: 2008年7月
長島訳について:意味不明の誤訳
no,38の冒頭で長島訳を「意味不明の誤訳」と評した。このことについてもう少し述べよう。
誤訳について、かつてその原因を考えたことがあった。
(1) 単純なミス。思い違いや取り違えに由来し、人間のすることだからどうしても起こるもの。冷静に読み直せば本人でも気づくもの。私もするし、あまりひどくなければ許容範囲かもしれない。
(2) 翻訳者の実力不足。この実力にいろいろ考えられる。(a) (原典の)語学力(読解力)。読解力には純粋な語学力だけでなく、書かれている内容に関する知識が相当にものをいう。スヴェーデンボリを訳すなら、精神世界やキリスト教、聖書に精通していなくてはならない。この知識がなくては正確な翻訳はできないと思う。(b) (日本語の)表現力、文章力。せっかく内容が汲み取れても、それを読者に的確に伝える文章力がなければ何にもならない。読みやすく、誤解しそうな表現を避けるなどの工夫が必要である読者が誤って受け止めかねない文章、誤解を与える文章なら、広い意味で「誤訳」といえる。
以上のようなことを考えていた。しかし、ここで別種の誤訳に気づかされた。翻訳者の「意識・無意識」の問題である。上記のように勘違いや実力不足から、翻訳者が無意識に行なってしまう誤訳がある。
しかし、長島氏の翻訳には翻訳者の「意識的なもの」がある。それで「意味不明」となるのだった。
長島訳を読んだ方ならお気づきと思う。その翻訳に余計な付加(「三層の天界」の例に見られる「層」を勝手に加えている)があり、あまりに原文から離れた訳し方をしていることである。なぜこうなのかを考えてみた。翻訳者自身に著者と違ういろいろな考えがある、当然のことである。しかし、翻訳文の中にそれを紛れ込ませてはいけない。忠実な翻訳ではなくなる。(翻訳者自身の「解釈」が翻訳文に反映してしまうことは、これはやむをえない、そうでなければ、だれが翻訳しても同じ文になるはず)。
別の言葉で言えば、スヴェーデンボリの名前で、その文章を借りて、自分の思想を語ることになる。今回「意味不明」とした「自分が神の秩序のもとで、どんな段階にいるか知らない者は」の部分は、原意からかけ離れていることもあるが、論理が成り立たないから意味不明である。長島氏の訳からは、「自分がどの段階に属するか」ということと、「天界の区分について理解できる」ことと何の関係があるのか、という疑問がわく。答えなどあるはずがない。誤訳だから。
本人が誤訳と気づかないのは、自分なりの論理を組み立てているから。そしてその持論を、言葉は悪いが、スヴェーデンボリの著作の中へ持ち込み、読者をそこへ引き込むから。それで、全体的に意味不明の文章となってしまう。
このように他人の訳を批評する時、その批評の矢が自分に向かってくるのは覚悟の上で述べている。
原典講読『天界と地獄』no.47, no.48.
(1) 原文
47. Omnes qui unam societatem angelicam formant, simili facie sunt in communi, sed non simili in particulari. Quomodo similitudines in communi et variationes in particulari se habent, aliquantum comprehendi potest ex talibus in mundo: notum est, quod unaquaevis gens aliquod commune simile ferat in faciebus et oculis, per quod noscitur, et internoscitur ab alia gente; et adhuc magis una familia ab altera; sed hoc multo perfectius in caelis, quia ibi omnes affectiones interiores apparent et elucent ex facie, nam facies ibi est illarum forma externa et repraesentativa; aliam faciem habere quam suarum affectionum, non datur in caelo. Ostensum etiam est, quomodo communis similitudo variatur particulariter in singulis qui in una societate sunt: erat facies sicut angelica, quae mihi apparebat, et haec variabatur secundum affectiones boni et veri, quales sunt apud illos qui in una societate; variationes illae persistebant diu; et observabam, quod usque eadem facies in communi sicut planum permaneret, et quod reliquae essent modo derivationes et propagationes inde: sic etiam per hanc faciem ostensae sunt affectiones totius societatis, per quas variantur facies illorum qui ibi; nam, ut supra dictum est, facies angelicae sunt formae interiorum suorum, ita affectionum quae amoris et fidei.
(2) 直訳
Omnes qui unam societatem angelicam formant, simili facie sunt in communi, sed non simili in particulari. 一つの天使の社会を形作る者はすべて、全般的に似た顔である、しかし個別には似ていない。
Quomodo similitudines in communi et variationes in particulari se habent, aliquantum comprehendi potest ex talibus in mundo: 全般的な類似と個別での変化がどのようであるかは、世の中のこのようなものからいくらか把握することができる。
notum est, quod unaquaevis gens aliquod commune simile ferat in faciebus et oculis, per quod noscitur, et internoscitur ab alia gente; 知られている、それぞれの氏族は何らかの全般的な似たものが顔と目の中にもつこと、そのことによって知られる、そして他の一族から区別される。
et adhuc magis una familia ab altera; その上さらに大きい、一つの家族は他から。
sed hoc multo perfectius in caelis, quia ibi omnes affectiones interiores apparent et elucent ex facie, nam facies ibi est illarum forma externa et repraesentativa; しかし、このことは天界では多く完全〔である〕、なぜなら、そこですべての内的な情愛は顔から現われ、輝き出るから、なぜなら、顔はそこでそれら〔情愛〕の外なる形や表象であるから。
aliam faciem habere quam suarum affectionum, non datur in caelo. 自分の情愛以外の他の顔を持つことは、天界では存在しない。
Ostensum etiam est, quomodo communis similitudo variatur particulariter in singulis qui in una societate sunt: さらにまた示された、全般的な(=共通の)類似がどのように変化するか、一つの社会の中にいる個々の者の中で特に。
erat facies sicut angelica, quae mihi apparebat, et haec variabatur secundum affectiones boni et veri, quales sunt apud illos qui in una societate; 天使のような顔があった、それが私に現われた、そしてこれ(顔)が善と真理の情愛にしたがって変化した、一つの社会の中の者のもとのようなものである〔情愛〕。
variationes illae persistebant diu; その変化は長い間続いた。
et observabam, quod usque eadem facies in communi sicut planum permaneret, et quod reliquae essent modo derivationes et propagationes inde: そして私は認めた(気づいた)、それでも全般的に同じ顔が平面(=場面)☆のように持続した、残りのものはそこからの単なる派生物と繁殖物であったこと。
☆このplanus「(平)面」については、 (4)「場面」の訳語について、を参照。
sic etiam per hanc faciem ostensae sunt affectiones totius societatis, per quas variantur facies illorum qui ibi; こうしてさらにまたこの顔によって、社会全体の情愛が示された、それ〔情愛〕によってそこの者の彼らの顔が変化する。
nam, ut supra dictum est, facies angelicae sunt formae interiorum suorum, ita affectionum quae amoris et fidei. なぜなら、上に述べたように、天使たちの顔は、自分の内的なものの形であるから、こうして、愛と信仰に属する情愛〔の形である〕。
(3) 訳文
一つの天使の社会を形作る者はすべて、全般的に似た顔をしているが、しかし個別には似ていない。全般的な類似と個別での変化がどのようであるかは、世の中のそのようなものからいくらか把握することができる。各氏族には顔と目にある全般的に似たものがあり、それによって他の一族から区別されるが知られている。さらには、ある家族は他の家族から区別される。そして、このことは天界ではさらに完全なものとなっている、なぜなら、天界ではすべての内的な情愛は、顔から現われ、輝き出て、顔は、情愛の外なる形や表象であるからである。天界では自分の情愛以外の他の顔を持つことはない。さらにまた、全般的な類似が、一つの社会の中にいる個々の者の中で特にどのように変化するかも示された。天使のような顔が私に現われ、そしてその顔が、一つの社会の中の者のもとの善と真理の情愛にしたがって変化した。その変化は長い間続いた。そのとき私は、全般的に同じ顔が場面のように持続し、残りのものはそこからの単なる派生物と繁殖物であること、こうしてさらにまたこの顔によって、社会全体の情愛が示され、情愛によってそこの者の顔が変化することを認めた。なぜなら、上に述べたように、天使たちの顔は自分の内的なものの形であり、こうして愛と信仰に属する情愛の形であるから。
(4) 「場面」の訳語について
この個所の直訳「それでも全般的に同じ顔が面のように持続した」だと“「面」とは何か”という疑問が生じます。この文の前後で「面」について触れていないので、スヴェーデンボリにとっては説明を要しない言葉だったのでしょう。訳者なり、読者が解釈しなければなりません。自分なりの解釈を訳文に盛り込むことをせず、理解できても、できなくても、原文(英語)に書いてあるままに訳した柳瀬氏は「面」と訳し、「プレイン」とルビを振っています。
私がかつて柳瀬氏に何か質問したことがあった、そのとき、氏は「私は書いてある通りに訳したんですよ」と答えられた。この意味を私は二通りに受け止めている。一つはよい意味で「私流の解釈を入れない」「解釈は読者に任せる」というもの。もう一つは悪い意味で、「意味・内容を考えることはしない」というもの。後者が悪い意味での直訳「意味が通じても通じなくても訳語を当てはめておく」である。どちらの意味にしろ、柳瀬氏は直訳派であった。文体まで英語調なので「読みづらい」という人もいるが、私は英語の論理の進め方に慣れているので読みづらいことはなかった。
さて私はどちらかといえば直訳派ですが、内容についても考えます。わかるようなわからないような個所です。それでも何らかの訳語を当てはめなければなりません。planus(通常は平面の意味)には「舞台」の意味もあります。ここからかもしれませんがJ.C.Agerはbackgroundと英訳しています。
この内容がよく理解できないので、このまま「平面」とするのかな、と疑問を抱えながら日曜礼拝参加のため電車に乗りました。電車の中で思いついたのが「舞台」から連想した「場面」です。これなら「面」の言葉が組み込まれているのでちょうどよい! でもやや意訳ですね。
ついでながら長島訳は「どの顔にもある共通の特徴がもとになって、そこから派生するか、発展する貸し手、他の特徴が生まれてきていることです」としています。私にはこのように「特徴」とまで踏み込んだ意訳をする気になれません。そして後半の「他の特徴が生まれてくる」は原意とはまったくかけ離れた訳者独自の解釈に基づく誤訳です。
(1) 原文
48. Inde etiam fit, quod angelus qui praestans sapientia est, videat illico ex facie qualis alter est; non potest quisquam ibi vultu recondere interiora, et simulare, et prorsus non mentiri et fallere astu et hypocrisi. Contingit aliquoties, quod in societates se insinuent hypocritae, qui edocti sunt recondere interiora sua, et componere exteriora ut appareant in forma boni, in quo sunt qui in societate, et sic mentiri lucis angelos; sed hi non diu ibi morari possunt, incipiunt enim angi interius, cruciari, livescere facie, et quasi exanimari: alterantur ita ex contrarietate vitae quae influit et operatur; quare se dejiciunt repente in infernum ubi similes, nec hiscunt amplius ascendere. Sunt illi qui intelliguntur per eum, qui inventus est inter discumbentes et invitatos, non indutus veste nuptiali, et ejectus in tenebras exteriores (Matth. xxii. 11, seq.).
(2) 直訳
Inde etiam fit, quod angelus qui praestans sapientia est, videat illico ex facie qualis alter est; さらにまたここからである、知恵ですぐれている天使は、顔からそこに見ること、他の者がどのようであるか。
non potest quisquam ibi vultu recondere interiora, et simulare, et prorsus non mentiri et fallere astu et hypocrisi. だれもそこでは内的なものを外見(顔つき)で隠すこと、偽ることはできない、また完全にない、装うことや欺くこと、狡猾さや偽善で。
Contingit aliquoties, quod in societates se insinuent hypocritae, qui edocti sunt recondere interiora sua, et componere exteriora ut appareant in forma boni, in quo sunt qui in societate, et sic mentiri lucis angelos; 数回、起こった、社会の中へ偽善者が自分を入り込ませること、その者は自分の内的なものを隠すことを教えられていた、そして外的なものを善の形に表れるように作り上げることを、その〔善の〕中に〔その〕社会の者たちはいる、こうして光の天使たちを偽装する☆こと。
☆mentiorは「偽る」意味もありますが(長島訳)、ここでは「偽り装う」意味です。
sed hi non diu ibi morari possunt, incipiunt enim angi interius, cruciari, livescere facie, et quasi exanimari: しかし、これらの者は長い間そこにとどまることができない、なぜなら、内なる痛みが始まるから、苦しめられること、顔は鉛色になること、いわばいのちを奪われること。
alterantur ita ex contrarietate vitae quae influit et operatur; このように変えられる、対立するいのちから、それが流入し、働きかけられる〔から〕。
quare se dejiciunt repente in infernum ubi similes, nec hiscunt amplius ascendere. それゆえ、急いで☆自分自身を投げ落とす、そこに〔自分と〕似た者〔のいる〕地獄へ、もはやあえて昇ることをしない。
☆repenteを長島訳は「結局はくやんで」と誤訳している。
Sunt illi qui intelliguntur per eum, qui inventus est inter discumbentes et invitatos, non indutus veste nuptiali, et ejectus in tenebras exteriores (Matth. xxii.11, seq.). これらの者が彼によって意味される者である、食事の席についている者や招待客の間で見つけられた者、婚礼の衣装を着ていないで、外側の暗やみに投げ出された〔者〕(マタイ22:11以降)。
(3) 訳文
さらにまたここから、知恵ですぐれている天使は、顔からそこに、他の者がどのようであるかを見る。天界ではだれも内的なものを顔つきで隠し、偽ることはできず、また狡猾さや偽善で装うことや欺くこともまったくない。数回、、〔天使たちの〕社会の中へ偽善者が自分を入り込ませることがあった。その者は自分の内的なものを隠し、そして外的なものをその社会の者たちの善の形に表れるように作り上げること、こうして光の天使を偽り装うことを教えられていた。しかし、これらの者は長い間そこにとどまることができない、なぜなら、内なる痛みが始まり、苦しみ、顔は鉛色になり、あたかもいのちを奪われるかのようになるから。このように変えられるのは、対立するいのちが流入し、働きかけるからである。それゆえ、急いで自分と似た者のいる地獄へ自分自身を投げ落とし、もはやあえて昇ることをしない。これらの者が、食事の席についている者や招待客の間で、婚礼の衣装を着ていないのを見つけられ、外側の暗やみに投げ出された者によって意味される者である(マタイ22:11以降)。
原典講読『天界と地獄』no.49, no.50.
(1) 原文
49. Communicant omnes societates caeli inter se, non per apertum commercium, pauci enim exeunt e societate sua in aliam, nam exire e societate est sicut exire a se seu a sua vita, et transire in aliam quae non ita convenit; sed communicant omnes per extensionem sphaerae, quae procedit ex vita cujusvis: sphaera vitae est sphaera affectionum quae amoris et fidei; haec se extendit in societates circumcirca in longum et in latum, et eo longius et latius, quo affectiones sunt interiores et perfectiores.{1} Secundum extensionem illam est angelis intelligentia et sapientia: qui in intimo caelo sunt, et ibi in medio, habent extensionem in universum caelum; inde communicatio omnium caeli est cum unoquovis, et uniuscujusvis cum omnibus.{2} Sed de hac extensione infra plenius agendum est, ubi de Forma caelesti, secundum quam angelicae Societates dispositae sunt; et quoque ubi de Sapientia et Intelligentia angelorum; nam omnis extensio affectionum et cogitationum vadit secundum illam formam.
(2) 直訳
Communicant omnes societates caeli inter se, non per apertum commercium, pauci enim exeunt e societate sua in aliam, nam exire e societate est sicut exire a se seu a sua vita, et transire in aliam quae non ita convenit; 天界のすべての社会はそれ自体の間で伝達する、開かれた交流によってでなく、なぜなら、少ない者が自分の社会から他〔の社会〕へ出て行くから、なぜなら、社会から出て行くことは自分自身からまたは自分のいのちから出て行くこと、このように適合しない他のものの中に移ることのようであるから。
sed communicant omnes per extensionem sphaerae, quae procedit ex vita cujusvis: しかし、すべてのものはスフェアの拡大によって伝達する、それはそれぞれのいのちから発出する。
sphaera vitae est sphaera affectionum quae amoris et fidei; いのちのスフェアは愛と信仰のその情愛のスフェアである。
haec se extendit in societates circumcirca in longum et in latum, et eo longius et latius, quo affectiones sunt interiores et perfectiores.{1} これ〔スフィア〕は周囲の社会へ遠く、広く、それ自体を広げる、情愛がさらに内的でさらに完全であるほど、それだけさらに遠く、さらに広く{1}。
☆相関文eo~quo・・・は比較級を伴って「・・・であればあるほどますます~」。
Secundum extensionem illam est angelis intelligentia et sapientia: その拡大にしたがっている、天使たちの知性と知恵は。
qui in intimo caelo sunt, et ibi in medio, habent extensionem in universum caelum; 最内部の天界の中に、そしてそこの真ん中にいる者は、全天界の中へ拡大〔するスフェア〕を持つ。
inde communicatio omnium caeli est cum unoquovis, et uniuscujusvis cum omnibus.{2} ここから、天界のすべて(の者)の伝達がそれぞれ(の者)とある、またそれぞれ(の者)はすべて(の者)と{2}。
Sed de hac extensione infra plenius agendum est, ubi de Forma caelesti, secundum quam angelicae Societates dispositae sunt; しかし、この拡大について下に(=後で)さらに十分に述べられる、そこに、天界の形について、それ〔形〕にしたがって天界の社会は配列される。
et quoque ubi de Sapientia et Intelligentia angelorum; さらにまたそこに、天使たちの知恵と知性について。
nam omnis extensio affectionum et cogitationum vadit secundum illam formam. なぜなら、情愛と思考の拡大はすべて、その形にしたがって進むから。
(3) 訳文
天界のすべての社会は互いに伝達し合う。開かれた交流によってでない、なぜなら、自分の社会から他の社会へ出て行く者は少ないから、それというのも、社会から出て行くことは、自分自身からまたは自分のいのちから出て行くことであり、このように適合しない他のものの中に移ることのようであるから。しかし、すべてのものは、それぞれのいのちから発出するスフェアの拡大によって伝達する。いのちのスフェアとは愛と信仰のその情愛のスフェアである。このスフィアは周囲の社会へ遠く、広く、情愛が内的で完全であるほど、それだけさらに遠く、さらに広汎に広がる{1}。天使たちの知性と知恵はその拡大にしたがっている。最内部の天界の中に、そしてそこの真ん中にいる者は、全天界へ拡大するスフェアを持つ。ここから、天界のすべての者にはそれぞれの者との伝達があり、またそれぞれの者はすべての者との伝達がある{2}。
しかし、この拡大については、後で、天界の形について、その形にしたがって天界の社会は配列されるのであるが、そこのとこれで、さらにまた、天使たちの知恵と知性についてのことろで、さらに十分に述べよう。情愛と思考の拡大はすべて、その形にしたがって進むからである。
(EX ARCANIS CAELESTIBUS.)
(1) 原文
@1 Quod sphaera spiritualis, quae est sphaera vitae, effluat ex unoquovis homine, spiritu et angelo, et circumstipet illos (n. 4464, 5179, 7454, 8630).
Quod effluat ex vita affectionis et cogitationis eorum (n. 2489. 4464, 6206).
Quod sphaerae illae se longe extendant in societates angelicas secundum quale et quantum boni (n. 6598-6613 [? 6612], 8063, 8794, 8797).
@2 Quod in caelis detur communicatio omnium bonorum, quoniam amor caelestis communicat omnia sua cum altero (n. 549, 550, 1390, 1391, 1399. 10130, 10723).
(2) 直訳
@1 Quod sphaera spiritualis, quae est sphaera vitae, effluat ex unoquovis homine, spiritu et angelo, et circumstipet illos. 霊的なスフェアは、それはいのちのスフェアであるが、それぞれの人間、霊、天使から流れ出て、彼らを取り囲んでいる。
Quod effluat ex vita affectionis et cogitationis eorum. 彼らの情愛と思考のいのちから流れ出る。
Quod sphaerae illae se longe extendant in societates angelicas secundum quale et quantum boni. それらのスフィアは天使たちの社会の中へ善の性質と量にしたがって遠く広がっている。
@2 Quod in caelis detur communicatio omnium bonorum, quoniam amor caelestis communicat omnia sua cum altero. 天界の中にすべての善の伝達が存在する、天界の愛はそのもののすべてを他へ伝達するので。
(1) 原文
50. Dictum supra est, quod in caelis sint societates majores et minores; majores consistunt ex myriadibus, minores ex aliquot millibus, et minimae ex aliquot centenis angelis. Sunt etiam qui solitarii habitant, quasi domus et domus, familia et familia; hi tametsi ita dispersi vivunt, usque similiter ordinati sunt, sicut illi qui in societatibus, quod nempe sapientiores illorum in medio sint, et simpliciores in terminis: hi propius sub auspicio Divino Domini sunt, et sunt angelorum optimi.
(2) 直訳
Dictum supra est, quod in caelis sint societates majores et minores; 上に言われた、天界の中に大小の社会があること。
majores consistunt ex myriadibus, minores ex aliquot millibus, et minimae ex aliquot centenis angelis. 大きいものは(数)万〔の天使たち〕から構成される、小さいものは何千から、最小のものは何百人かの天使たちから。
Sunt etiam qui solitarii habitant, quasi domus et domus, familia et familia; さらにまた孤立して住む、あたかも家と家、家族と家族のように。
hi tametsi ita dispersi vivunt, usque similiter ordinati sunt, sicut illi qui in societatibus, quod nempe sapientiores illorum in medio sint, et simpliciores in terminis: これらの者は、たとえこのように広がっていても、それでも同様に配列されている、社会の中にいる者のように、すなわち、彼らのさらに賢い者は真ん中にいる、さらに単純な者は辺境にいる。
hi propius sub auspicio Divino Domini sunt, et sunt angelorum optimi. これらの者は、主の神的な導きのもとの近くにいる、天使たちの最も優れた者たちである。
(3) 訳文
天界の中に大小の社会があることは前述した。大きいものは数万の天使たちから、小さいものは何千の天使から、最小のものは何百かの天使たちから構成される。さらにまた、あたかも家ごと、家族ごとのように、孤立して住む。これらの者は、たとえこのように広がっていても、それでも社会の中にいる者と同じように配列されている、すなわち、彼らの賢い者は真ん中に、単純な者は辺境にいる。これらの者は、主の神的な導きの近くにいて、天使たちの最良の者たちである。
(4) 感想
ここから想起することは、都会の町並みと田舎の「家」である。長く都会暮らしした人間が田舎にあこがれるのはどうしてなのか。
都会の町並みは、こまごまとしていて、またいろいろあって何か新しい発見があるような気がしてくる。しかし「平和」は感じない。
田舎に行き、点在する民家を見る。萱葺(かやぶき)ならばもっとよい。辺りにあるのは自然だけで目新しいものは何もない。しかし穏やかで平和な気配を強く感じる。そこに最も善良な天使たちが住んでいるからだろう。
長島訳の誤訳の指摘について
先人の訳を見るのは当然のこと、また個人的にどのように評価するのも自由。さて、これまで誤訳を指摘してきているが、なぜかを述べよう。これを「人の荒捜し」「非難」と受け止める人がいるかもしれない、私にそのような性分があるのは否定しない。でも私の本来の思いはやや違う。
翻訳するとき「私の前に道はない、私の後に道はできる」という気がするので、道路にたとえよう。先人が道を通してくれた、それをたどると橋があった(あるいは、つまずきそうな石があった)、手抜き工事とまでは言わないが、欠陥個所が見つかった。用心しないと橋から落ちそうに思える。その欠陥個所を見つけた人間は、そのことを指摘するだろう、「この橋には危ないところがあるよ」と。そしてつくり直す余裕があればつくり直すだろう。
このように思ってほしい。誤りを見つけた人間は、とりあえず他の人たちに知らせておく義務があると思う(全部をよくわかっている人には余計なことですね、しかし、「間違っている」と言わないと、見逃す人も多いのではないでしょうか)。
もう一つ補足しよう。16歳も年長の先輩に苦言を呈するのは遠慮しがちになるものであるが、翻訳者の翻訳中の年齢を考慮してみる。長島氏がラテン原典より本邦初訳として『天界と地獄』を出版したのは1985年、54歳のときであった。私が現在61歳である。時間を越えて、同時代に生きたとすれば、7、8歳年下の翻訳者仲間に誤りを指摘してもそれほど失礼ではないと思う。