(1) 原文
44. Similes quasi ex se feruntur ad similes; nam sunt cum similibus sicut cum suis, et sicut domi; cum aliis autem sicut cum peregrinis, et sicut foris: quando apud similes sunt, etiam in suo libero sunt, et inde in omni jucundo vitae.
(2) 直訳
Similes quasi ex se feruntur ad similes; 似た者はいわば自分自身から似た者へ導かれる。
nam sunt cum similibus sicut cum suis, et sicut domi; なぜなら、似た者とは自分自身と〔いっしょか〕のよう、〔自分の〕家に〔いるか〕のようであるから。
cum aliis autem sicut cum peregrinis, et sicut foris: しかしながら、他の者とは外国人と〔いっしょか〕のよう、外に〔いるか〕のようである。
quando apud similes sunt, etiam in suo libero sunt, et inde in omni jucundo vitae. 似た者のもとにいる時、彼らはまた自分自身の自由の中にいる、それゆえ、いのちのすべての楽しさの中に〔いる〕。
(3) 訳文
似た者はあたかも自分自身からかのように似た者へと導かれる。似た者とは自分自身といっしょか、自分の家にいるかのようであるが、似ていない者とは外国人といっしょか、外にいるかのようであるからである。似た者といっしょにいる時、自分自身の自由の中にいて、それゆえ、いのちのすべての楽しさの中にいる。
(1) 原文
45. Inde patet, quod bonum consociet omnes in caelis, et quod distinguantur secundum ejus quale: at usque non angeli sunt, qui se ita consociant, sed Dominus a quo bonum; Ipse ducit illos, conjungit illos, distinguit illos, et tenet illos in libero quantum in bono; ita unumquemvis in vita sui amoris, suae fidei, suae intelligentiae et sapientiae, et inde in felicitate.{1}
(2) 直訳
Inde patet, quod bonum consociet omnes in caelis, et quod distinguantur secundum ejus quale: ここから明らかである、善が天界の中のすべての者を仲間とする(=交わらせる)こと、またその性質にしたがって区別されること。
at usque non angeli sunt, qui se ita consociant, sed Dominus a quo bonum; しかしそれでも天使たちではない、自分自身を交わらせる者は、(しかし)主〔である〕、その方から善〔が存在する〕。
Ipse ducit illos, conjungit illos, distinguit illos, et tenet illos in libero quantum in bono; その方が彼らを導き、彼らを結合させ、彼らを区別し、彼らを自由の中に保たれる、善の中にいるかぎり(=その程度に)。
ita unumquemvis in vita sui amoris, suae fidei, suae intelligentiae et sapientiae, et inde in felicitate.{1} このようにそれぞれの者を自分の愛のいのち、自分の信仰、自分の知性と知恵の中に、ここから幸福の中に〔保たれる〕{1}。
(3) 訳文
ここから、天界の中のすべての者を善が交わらせ、またその性質にしたがって区別すること明らかである。しかしそれでも、互い交わらせる者は、天使たちではなく、善の源であられる主である。その方が彼らを導き、彼らを結合させ、彼らを区別し、善の中にいるかぎり彼らを自由の中に保たれ、このようにそれぞれの者を自分の愛のいのち、自分の信仰、自分の知性と知恵の中に、ここから幸福の中に保たれる{1}。
(EX ARCANIS CAELESTIBUS.)
(1) 原文
@1 Quod omne liberum sit amoris et affectionis, quoniam quod homo amat, hoc libere facit (n. 2870, 3158, 8907 [? 8987], 8990, 9585, 9591).
Quia liberum est quod est amoris, quod inde sit vita cujusvis et ejus jucundum (n. 2873).
Quod nihil appareat ut proprium, nisi quod ex libero (n. 2880).
Quod ipsissimum liberum sit duci a Domino, quia sic ducitur ab amore boni et veri (n. 892, 905, 2872, 2886, 2890, 2891, 2892, 9096, 9586-9591).
(2) 直訳
@1 Quod omne liberum sit amoris et affectionis, quoniam quod homo amat, hoc libere facit. すべての自由は愛と情愛に属する、人間が愛すること、これを自由に行なうので。
Quia liberum est quod est amoris, quod inde sit vita cujusvis et ejus jucundum. 自由は愛に属するものなので、それゆえ、それぞれの者のいのちとその楽しさであること。
Quod nihil appareat ut proprium, nisi quod ex libero. 何も自己のものとして現われない、もし自由からのものでないなら。
Quod ipsissimum liberum sit duci a Domino, quia sic ducitur ab amore boni et veri. まさに自由そのものである、主により導かれることは、なぜなら、善と真理のあいにより導かれるから。
(1) 原文
46. Cognoscunt etiam se omnes qui in simili bono sunt, prorsus sicut homines in mundo suos propinquos, suos affines, et suos amicos, tametsi illos nusquam prius viderunt; ex causa, quia in altera vita non sunt propinquitates, affinitates, et amicitiae aliae quam spirituales, ita quae sunt amoris et fidei.{1} Hoc mihi aliquoties datum est videre, quando in spiritu fui, ita abductus a corpore, et sic in consortio cum angelis: tunc quosdam ex illis vidi sicut notos ab infantia, alios vero sicut prorsus non notos; qui visi sicut noti ab infantia, fuerunt qui in simili statu cum statu spiritus mei erant; qui autem non noti, in dissimili.
(2) 直訳
Cognoscunt etiam se omnes qui in simili bono sunt, prorsus sicut homines in mundo suos propinquos, suos affines, et suos amicos, tametsi illos nusquam prius viderunt; さらにまた、自分自身に知っている、善で似ている者はすべて、世で自分の親族、自分の姻戚、自分の友のように完全に〔知っている〕、たとえ彼らを以前に決して見たことがなくても。
ex causa, quia in altera vita non sunt propinquitates, affinitates, et amicitiae aliae quam spirituales, ita quae sunt amoris et fidei.{1} その理由は☆、来世では親族関係、姻戚関係、友情は霊的なもの、このように愛と信仰に属するもの以外の他のものではないから。
☆ex causa, quia~の直訳は「理由から、なぜなら~」ですが、「その理由は~」と訳します。
Hoc mihi aliquoties datum est videre, quando in spiritu fui, ita abductus a corpore, et sic in consortio cum angelis: このことを私にときどき見ることが与えられた、霊の中にいた時、このように身体から引き出されて、こうして天使たちとの交わりの中で。
tunc quosdam ex illis vidi sicut notos ab infantia, alios vero sicut prorsus non notos; その時、彼らからのある者を私は見た、子供時代から知っている者のように、しかし他の者は完全に知らない者のように。
qui visi sicut noti ab infantia, fuerunt qui in simili statu cum statu spiritus mei erant; 私が子供時代から知っている者のように見た者は、私の霊の状態と似た状態の中にいた者であった。
qui autem non noti, in dissimili. しかしながら私が知らなかった者は、異なった中に〔いた〕。
(3) 訳文
さらにまた、善で似ている者はすべて、互いに、この世での自分の親族、自分の姻戚、自分の友のように完全に知っている、たとえ彼らを以前に決して見たことがなくてもである。その理由は、来世では親族関係、姻戚関係、友情は、霊的なもの、このように愛と信仰に属するもの以外の何ものではないからである{1}。
このことを私は、霊の中にいた時、身体から引き出されて、こうして天使たちとの交わりの中にいた時、ときどき知らされた。その時、彼らの中のある者は、子供時代から知っている者のように、しかし他の者は完全に知らない者のように、私に見えた。私が子供時代から知っている者のように見えた者は、私の霊の状態と似た状態の中にいた者であった。しかし私が知らなかった者は、異なった状態中にいた。
(EX ARCANIS CAELESTIBUS.)
(1) 原文
@1 Quod omnes proximitates, cognitiones, affinitates et quasi consanguinitates in caelo sint ex bono, et secundum ejus convenientias et differentias (n. 605 [? 685], 917, 1394, 2739, 3612, 3815, 4121).
(2) 直訳
@1 Quod omnes proximitates, cognitiones☆, affinitates et quasi consanguinitates in caelo sint ex bono, et secundum ejus convenientias et differentias. 天界の中のすべての近縁、親類☆、姻戚また血族のようなものは、善から存在する、そしてその適合と相違にしたがって。
☆この綴りcognitioのままなら「知識」ですが、文脈からcognatio「親族関係」と理解します。
(4) 雑感「類は友を呼ぶ」
このあたりの話は経験と照らし合わせてよくわかりますね。「気心の知れた」仲間うちなら、気持ちがほぐれ自由を感じます。何かの集まりに出て、「場違いだな、私の来るところではなかったかな」と感じたことがあるのではないでしょうか。こうしたもののの源泉が霊界にあり、霊の状態の同・不同からくるのですね。仲のよい仲間を眺めると、何か「似た者どうし」の気がします。霊の状態、愛と広い意味での信仰(神だけでなく、何かの主義主張など)が同じなんですね。
日: 2008年7月5日
原典講読『天界と地獄』の原文準備完了
この連載の少し前から、「原文」を準備し始め、ここで全部がやっと終了しました。一つ一つ打ち込むのではなく、「The Heavenly Doctrines」というサイトからダウンロードしています。このサイトは検索ができるのでよく利用します。やや体裁を整えるだけで済めば問題ないのですが、実は大変でした。
そこにアップロードされているものは最新版のラテン原典で、私の所有するもの同じですが、もちろんスキャナーで読みとったもののようです。するとそこにはエラーがあります。一番多かったのは句読点の消滅です。これはほぼ全部の文段で数個見つかりました。次が句読点の変化です。カンマがピリオッドに変わったりしています。何と綴りが変化していたものまでありました。この理由はわかりません。それで、そうとう注意深く、本となっている原典と照合しながら原文の準備をしていました。それで皆さんも同サイトのラテン原文に絶対の信用は置かないでください。
毎日3時間以上費やして、ここで終えました。この間、「レキシコン」の翻訳はストップしたままでした。ここで「レキシコン」に戻れます。また、こうした文章も書けるでしょう。
長島訳について:意味不明の誤訳
no,38の冒頭で長島訳を「意味不明の誤訳」と評した。このことについてもう少し述べよう。
誤訳について、かつてその原因を考えたことがあった。
(1) 単純なミス。思い違いや取り違えに由来し、人間のすることだからどうしても起こるもの。冷静に読み直せば本人でも気づくもの。私もするし、あまりひどくなければ許容範囲かもしれない。
(2) 翻訳者の実力不足。この実力にいろいろ考えられる。(a) (原典の)語学力(読解力)。読解力には純粋な語学力だけでなく、書かれている内容に関する知識が相当にものをいう。スヴェーデンボリを訳すなら、精神世界やキリスト教、聖書に精通していなくてはならない。この知識がなくては正確な翻訳はできないと思う。(b) (日本語の)表現力、文章力。せっかく内容が汲み取れても、それを読者に的確に伝える文章力がなければ何にもならない。読みやすく、誤解しそうな表現を避けるなどの工夫が必要である読者が誤って受け止めかねない文章、誤解を与える文章なら、広い意味で「誤訳」といえる。
以上のようなことを考えていた。しかし、ここで別種の誤訳に気づかされた。翻訳者の「意識・無意識」の問題である。上記のように勘違いや実力不足から、翻訳者が無意識に行なってしまう誤訳がある。
しかし、長島氏の翻訳には翻訳者の「意識的なもの」がある。それで「意味不明」となるのだった。
長島訳を読んだ方ならお気づきと思う。その翻訳に余計な付加(「三層の天界」の例に見られる「層」を勝手に加えている)があり、あまりに原文から離れた訳し方をしていることである。なぜこうなのかを考えてみた。翻訳者自身に著者と違ういろいろな考えがある、当然のことである。しかし、翻訳文の中にそれを紛れ込ませてはいけない。忠実な翻訳ではなくなる。(翻訳者自身の「解釈」が翻訳文に反映してしまうことは、これはやむをえない、そうでなければ、だれが翻訳しても同じ文になるはず)。
別の言葉で言えば、スヴェーデンボリの名前で、その文章を借りて、自分の思想を語ることになる。今回「意味不明」とした「自分が神の秩序のもとで、どんな段階にいるか知らない者は」の部分は、原意からかけ離れていることもあるが、論理が成り立たないから意味不明である。長島氏の訳からは、「自分がどの段階に属するか」ということと、「天界の区分について理解できる」ことと何の関係があるのか、という疑問がわく。答えなどあるはずがない。誤訳だから。
本人が誤訳と気づかないのは、自分なりの論理を組み立てているから。そしてその持論を、言葉は悪いが、スヴェーデンボリの著作の中へ持ち込み、読者をそこへ引き込むから。それで、全体的に意味不明の文章となってしまう。
このように他人の訳を批評する時、その批評の矢が自分に向かってくるのは覚悟の上で述べている。