(X.)
QUOD FIDES SEPARATA A CHARITATE ECCLESIA ET OMNIA EJUS DESTRUAT.
仁愛から分離した信仰は教会とそのすべてのものを破壊すること
(1) 原文
69. Fides separata a charitate nulla est fides, quoniam charitas est vita fidei, est anima ejus, et est essentia ejus; et ubi nulla fides est quia nulla charitas, ibi nulla ecclesia est. Quare dicit Dominus,
“Filius hominis cum venerit, num inveniet fidem super terra?” (Luc. xviii. 8.)
(2) 直訳
Fides separata a charitate nulla est fides, quoniam charitas est vita fidei, est anima ejus, et est essentia ejus; 仁愛から分離した信仰は信仰ではない、仁愛は信仰のいのちであり、その霊魂であり、その本質であるので。
et ubi nulla fides est quia nulla charitas, ibi nulla ecclesia est. そして仁愛がないので信仰のないところに、そこに教会はない。
Quare dicit Dominus, それゆえ、主は言われた、
“Filius hominis cum venerit, num inveniet fidem super terra?” (Luc. xviii. 8.) 「人の子が来るとき、〔その方は〕地の上に信仰を見つけるであろうか?」(ルカ18:8)。
(3) 訳文
仁愛は信仰のいのちであり、その霊魂であり、その本質であるので、仁愛から分離した信仰は信仰ではない。そして仁愛がないので信仰のないところに、そこに教会はない。それゆえ、主は言われた、
「人の子が来るとき、〔その方は〕地の上に信仰を見つけるであろうか?」(ルカ18:8)。
月: 2008年6月
原典講読『信仰』70,71,72 最終回
(1) 原文
70. Audivi hircos et oves aliquoties de eo collocutos, num illis, qui se confirmaverunt in fide separata a charitate, ulla veritas sit; et quia dixerunt, quod multa sit, lis illa in examen missa est. Et tunc interrogati sunt, num sciant quid amor, quid charitas, et quid bonum; et quia haec erant quae separaverunt, non potuerunt aliter respondere, quam quod non scirent. Interrogati sunt, quid peccatum, quid paenitentia, et quid remissio peccatorum; et quia responderunt quod qui justificati sunt per fidem, illis remissa peccata sint, ut non amplius appareant, dictum est illis, “Haec non veritas sunt.” Interrogati quid regeneratio, responderunt quod vel sit baptismus, vel quod sit remissio peccatorum per fidem: dictum illis quod id non veritas sit. Interrogati quid spiritualis homo, responderunt quod sit qui justificatus est per fidem confessionis nostrae: sed dictum illis, quod haec non veritas sit. Interrogati de redemptione, de unione Patris et Domini, deque unitate Dei, et responderunt quae non veritates erant; praeter plura. Post interrogationes et responsa lis ad judicium venit; quod erat, quod illi qui confirmaverunt se in fide separata a charitate non habeant ullam veritatem.
(2) 直訳
Audivi hircos et oves aliquoties de eo collocutos, num illis, qui se confirmaverunt in fide separata a charitate, ulla veritas sit; 私は数回、雄山羊と羊のそのことについての話を聞いた、彼らに〔ある〕かどうか、仁愛から分離した信仰を確信した者〔に〕、何かの「真理」がある〔かどうか〕。
et quia dixerunt, quod multa sit, lis illa in examen missa est. 多くのものがあることが言われたので、その論争が公判(=審理)に送られた。
Et tunc interrogati sunt, num sciant quid amor, quid charitas, et quid bonum; そしてその時、質問された、知っているかどうか、愛とは何か、仁愛とは何か、善とは何か。
et quia haec erant quae separaverunt, non potuerunt aliter respondere, quam quod non scirent. これらは彼らが分離してしまったものなので、他に答えることができなかった、知らないこと〔である〕以外に。
Interrogati sunt, quid peccatum, quid paenitentia, et quid remissio peccatorum; 質問された、罪と何か、悔い改めとは何か、罪の赦しとは何か。
et quia responderunt quod qui justificati sunt per fidem, illis remissa peccata sint, ut non amplius appareant, dictum est illis, “Haec non veritas sunt.” 信仰によって義とされた者は、彼に罪は許されており、それで、もはや〔そうしたことは〕現われないことを答えたので、彼らに、「それらは「真理」ではない」と言われた。
☆ここのutは結果を表わしますね。「その結果として、それで」。
Interrogati quid regeneratio, responderunt quod vel sit baptismus, vel quod sit remissio peccatorum per fidem: 再生とは何か質問され、洗礼であるかまたは信仰による罪の赦しであることを答えた。
dictum illis quod id non veritas sit. 彼らにそれは「真理」ではないことが言われた。
Interrogati quid spiritualis homo, responderunt quod sit qui justificatus est per fidem confessionis nostrae: 霊的な人間とは何かと質問され、私たちの告白の(=する)信仰によって義とされた者であることを答えた。
☆ここを柳瀬訳は「自分の信仰を告白することを通して義とされている~」と訳している、ここの「自分たちが告白している信仰によって」が正しい。意味が違ってしまうことがわかると思います。
sed dictum illis, quod haec non veritas sit. しかし、彼らに、これは「真理」でないことが言われた。
Interrogati de redemptione, de unione Patris et Domini, deque unitate Dei, et responderunt quae non veritates erant; あがないについて、御父と主との結合について、また神の単一性について質問され、「真理」でなかったことを答えた。
praeter plura. 他に多くのこと〔の質疑応答があった〕。
Post interrogationes et responsa lis ad judicium venit; 質問と応答の後、論争は判決へやって来た。
quod erat, quod illi qui confirmaverunt se in fide separata a charitate non habeant ullam veritatem. そのことはあった、仁愛から分離した信仰を自分自身に確信した者は何も「真理」を持っていないこと。
(3) 訳文
私は何度か、仁愛から分離した信仰を確信した者に、何かの「真理」があるかどうか、そのことについて雄山羊と羊の会話を聞いた。多くのものがあることと言われたので、その論争が公判にまわされた。その時、彼らは、、愛とは何か、仁愛とは何か、善とは何か、知っているかどうか質問された。これらは彼らが分離してしまったものなので、知らないとしか他に答えることができなかった。罪と何か、悔い改めとは何か、罪の赦しとは何か、と質問された。信仰によって義とされた者は、彼に罪は許されており、それで、もはや現われることはないと答えたので、彼らに、「それらは「真理」ではない」と言われた。
再生とは何か質問され、洗礼であるかまたは信仰による罪の赦しであることを答えた。彼らにそれは「真理」ではない、と言われた。霊的な人間とは何かと質問され、私たちの告白する信仰によって義とされた者であることを答えた。しかし、彼らに、それは「真理」でないと言われた。
あがないについて、御父と主との結合について、また神の単一性について質問され、「真理」でなかったことを答えた。他に多くのことがあった。質問と応答の後、論争は裁決された。その裁決は、仁愛から分離した信仰を自分自身に確信した者には何の「真理」もない、であった。
(1) 原文
71. Quod ita sit, non credi potest ab illis in mundo; quoniam qui in falsis sunt, non vident aliter quam quod falsa sint vera, et quod plura scire quam quae fidei eorum sunt, tanti non sit; et fides illorum est separata ab intellectu, est enim fides caeca, et ideo non inquirunt; et hoc non aliter inquiri potest quam ex Verbo media illustratione intellectus; quare vera, quae ibi sunt, vertunt in falsa, cogitando fidem ubi vident amorem, paenitentiam, remissionem peccatorum, et plura quae facti erunt.
(2) 直訳
Quod ita sit, non credi potest ab illis in mundo; このようであることは、彼らにより世では信じられることができない。
quoniam qui in falsis sunt, non vident aliter quam quod falsa sint vera, et quod plura scire quam quae fidei eorum sunt, tanti non sit; 虚偽の中にいる者なので、虚偽が真理であること以外の他に見ない、彼らの信仰のものであること以上に多くのことを知ることは、それほどのものではない〔と思っている〕。
☆ここの後半部分の長島訳「そしてかれらは、そうではないにかかわらず、自分たちの信仰以上に自ら知っていると思っています」は誤訳というよりも、勝手に作り上げた意味不明の文に思えます。
et fides illorum est separata ab intellectu, est enim fides caeca, et ideo non inquirunt; 彼らの信仰は理解力から分離している、なぜなら、盲目の信仰であるから、それゆえ彼らは問わない。
et hoc non aliter inquiri potest quam ex Verbo media illustratione intellectus; このことは問われることができることと異ならない、理解力の照らしを手段にみことばから以外に。
quare vera, quae ibi sunt, vertunt in falsa, cogitando fidem ubi vident amorem, paenitentiam, remissionem peccatorum, et plura quae facti erunt. それゆえ真理を、それらはそこにある、虚偽に変える、そこに愛を、悔い改めを、罪の赦しを、行なわれなくてはならない多くのことを信仰と考えて。
☆faciti eruntは未来完了受動態です。それで(これから起こるであろうことが)「行なわれてならない」という意味になります。
(3) 訳文
このようであることは、世では彼らにより信じられることができない。虚偽の中にいるので、虚偽が真理であるとしか知らないし、自分たちの信仰のものであること以外の多くのことを知ることは、それほどたいしたことではないと思っている。彼らの信仰は盲目の信仰なので理解力から分離しており、それゆえ彼らは問うことをしない。このことは、照らされた理解力から、みことばに基づいて問うことでしかできないことである。それゆえ、彼らは、愛、悔い改め、罪の赦し、行なわれなくてはならない多くのことを信仰と考えて、みことばある真理を虚偽に変えてしまう。
(1) 原文
72. Verum enim vero, tales sunt illi qui se in sola fide et doctrina et vita confirmaverunt; sed non illi, qui, tametsi audiverunt et crediderunt quod sola fides salvet, usque mala ut peccata fugerunt.
(2) 直訳
Verum enim vero, tales sunt illi qui se in sola fide et doctrina et vita confirmaverunt; しかしながら実に、信仰のみの中にいて、教えや生活で強化してしまった者、彼らはこのようである。
☆verum enim veroは文字通りの直訳なら「しかし、なぜなら、しかし」ですが、この三つをまとめて「しかしながら実に」と訳します。
sed non illi, qui, tametsi audiverunt et crediderunt quod sola fides salvet, usque mala ut peccata fugerunt. しかし、彼らはそうでない、たとえ信仰のみが救うことを聞き、信じもしても、それでも悪を罪として避けた者は。
(3) 訳文
信仰のみの中にいて、教えや生活で強化してしまった者らは、実にこのようである。しかし、たとえ信仰のみが救うことを聞き、信じたにしても、それでも悪を罪として避けた者たちはそうではない。
(4) あとがき
霊的な善と真理にもとづいた仁愛の実践に結びついた信仰が「真の信仰」であることがよくわかる内容だったかと思います。宗教というとどうしても仁愛を離れた真理だけの信仰になりがちです、そのことへの警鐘となっています。
原典講読『信仰』を終えて
5月14日の初掲載以来、ともかく少しだけでも、とやっていたら、約1ヶ月で終了。「毎日やる」というのは大きいと(改めて)実感しました。小冊子でも1ヶ月で訳すことはなかなかできることではありません。いずれ、整理して、「あおい出版」サイトに掲載します。本の形になるのは何年後でしょうか? その日は来るでしょうか?
このブログのアクセス数が毎日平均200あるのが大いに励みとなりました。これだけの方々から読まれていると、休むわけにはいきません。熱心な読者の方々に感謝いたします。ありがとうございます。
話をちょっと変えます。翻訳する上でこれまでの和訳書、柳瀬訳と長島訳を参考にしました。だいたい意味はつかめても、勘違いしているかもしれませんから、この二書から確認する意味と、文字通りどのように訳したか「参考」にするためです。すると、特に長島訳ですが、「ずいぶん原意とかけ離れているな」と感じるところが見つかりました。この二書の訳の修正が目的ではありませんから、いちいち疑問を感じるところを指摘しませんでしたが、何回か取り上げたところもあります。読者の方々にはぜひ見比べてみるようお勧めいたします。いろいろな意見を聞くことが、正しい判断を助けます。その意味でも、訳書を見比べることは、それだけ勉強になるはずです。
原典講読は少し休憩して、6月19日(新教会の日、『真のキリスト教』791参照)から『天界と地獄』を掲載し始めます。やや大著なので毎日掲載して10ヶ月ほどのロングランとなるでしょう。
『天界と地獄』について
「スヴェーデンボリの代表作は?」 と聞かれれば、『真のキリスト教』とする人もいるかもしれませんが、私は『天界の秘義』とします。でも「一番有名な著作」なら『天界と地獄』です。
初めて読んだスヴェーデンボリの著作が『天界と地獄』だった人は多いのではないでしょうか。私もそうです。83年9月(36歳)のときでした。出会いが遅かったのかようにも思いますが、その前にキリスト教について勉強していたので、人生の中でちょうどよい時期だったかもしれません。
他の「著作」を読みながら、読了したのが84年の9月。それ以来、英訳書を通読しただけで、あまり読んでいません。どちらかというと、聖書の内意に興味があり、『天界の秘義』などを読んでいました、またそのために、ヘブル語、ギリシア語を学んでいました。そして、93年ごろからは原典を読むために、ラテン語を学び始めたからです。
しかし、このあたりで、『天界と地獄』を読み直す時期が来たのだろうと思います。原典講読の講座を連載しながら、これからの約1年間、じっくり読んでみたいと思っています。
『天界と地獄』の和訳について (1)
最も多くの人に知られ、読まれているスヴェーデンボリの神学著作はおそらく、『天界と地獄』でしょう。
私が日本新エルサレム教会の出版社である静思社の実務を担当していた時代は今から30年も前のことですが、『天界と地獄』は毎年、全出版物の中でダントツの販売部数でした。
『天界と地獄』は明治の終わり、1910年に鈴木貞太郎の和訳によって初めて日本語での出版が行なわれました。出版元は英国のSwedenborg Societyで、有楽社という出版社をとおして刊行されました。
鈴木貞太郎という人は、仏教学者であり、特に禅仏教を国際的に知らしめた人物で、鈴木大拙という名で知られています。岩波書店からはたびたび『鈴木大拙全集』が刊行されており、その中にも『天界と地獄』の和訳が収載されています。