原典講読『信仰』6,7,8,9

(1) 原文
6. Ex his patet quod fides et veritas unum sint. Quare etiam antiqui, qui ex affectione in cogitatione de veris prae nostratibus fuerunt, loco fidei dixerunt veritatem. Inde quoque est, quod in Hebraea lingua veritas et fides una vox sint, quae vocatur Amuna seu Amen.
(2) 直訳
Ex his patet quod fides et veritas unum sint. このことから信仰と「真理」は一つであることが明らかである。
Quare etiam antiqui, qui ex affectione in cogitatione de veris prae nostratibus fuerunt, loco fidei dixerunt veritatem. それゆえさらにまた古代人は、彼らは、私たちよりも真理について、情愛からの思考の中にいた〔が〕、信仰の代わりに「真理」と言った。
Inde quoque est, quod in Hebraea lingua veritas et fides una vox sint, quae vocatur Amuna seu Amen. それゆえ、もまたである、ヘブル語で「真理」と信仰は同一の言葉であり、それは「アムナー」または「アーメン」と呼ばれる。
☆ここ箇所については、(4) 解説を参照。重大な事実がある。
(3) 訳文
 このことから信仰と「真理」は一つであることが明らかである。それゆえまた、私たちよりも真理について情愛からの思考の中にいた古代人は、信仰の代わりに「真理」と言った。それでまた、ヘブル語で真理と信仰は、「アムナー」または「アーメン」と呼ばれる同一の言葉である。
(4) 解説。私には非常に重要に思える事実。
 ヘブル語のAMN(アーメーン、意味は「(副詞)ほんとうに、アーメン」)も同じくAMNH(アムナー、意味は「(名詞)真理、(副詞)ほんとうに」も同じ語根AMN(アーマン、意味は「しっかりした、信頼できる」)から派生した語である。
 ヘブル語で「語根」といえば、そのまま動詞であり、その動詞としての意味に「信頼する・信じる」という意味がある。もう少し述べれば、アムナーまたはアーメンは「真理」という意味であるが、それがそのまま「信仰」を意味してはいない。すなわちヘブル語に信仰という言葉はない。ただ次の二箇所に「信仰」らしき言葉がある。①「申命記」32:20「彼らは真実のない子である」これを「信仰のない子」と訳すことがあるかもしれない。②もうひとつ、「ハバクク書」2:4「正しい人は信仰によって生きる」これは新改訳聖書の欄外注にあるように「真実によって生きる」が原意である。
 ここのスヴェーデンボリの叙述「同一の言葉」とは、正確には「ヘブル語には信仰という言葉がなく、それを真理を意味する言葉で代用」している。ここからは、さすがにヘブル語は「天的な言語である」と思う。
(1) 原文
7. Quod fides dicatur a Domino apud Evangelistas et in Apocalypsi, erat quia Judaei non crediderunt verum esse, quod Dominus esset Messias a prophetis praedictus; et ubi veritas non creditur, ibi fides dicitur. At usque aliud est fidem habere et credere in Dominum, et aliud fidem habere et credere alicui: de differentia dicetur infra.
(2) 直訳
Quod fides dicatur a Domino apud Evangelistas et in Apocalypsi, erat quia Judaei non crediderunt verum esse, quod Dominus esset Messias a prophetis praedictus; 主により「福音書」と「黙示録」に信仰と言われていることは、ユダヤ人たちが真理(真実)であると信じなかったからである、主が預言者たちにより預言されたメシアであることを。
et ubi veritas non creditur, ibi fides dicitur. 「真理」が信じられないところに、そこに信仰と言われる。
☆ここで「真理」と訳したveritasについては、(4) 解説を参照。
At usque aliud est fidem habere et credere in Dominum, et aliud fidem habere et credere alicui: しかしそれでも、信仰を持ち、主を信じることはあるものであり、信仰を持ち、だれかを信じることは別のものである。
☆alius~et alius・・・「あるものは~別のものは・・・」、「一つは~他は・・・」、「~と・・・は別もの」。
de differentia dicetur infra. 相違について下に述べよう。
(3) 訳文
 「福音書」と「黙示録」に、主により信仰と言われているのは、ユダヤ人たちが、主が預言者たちにより預言されたメシアであることを真理(真実)であると信じなかったからである。「真理」が信じられないところでは、信仰と言われる。しかしそれでも、信仰を持って、主を信じることと、信仰を持って、だれかを信じることは別のものである。その相違について以下に述べよう。
(4) 解説「VerumとVeritas」
 原文と訳語を見比べればverumとveritasが同じ真理と訳されています(ここではveritasを「」をつけて区別しました)。これについて詳しくはこのサイト「ラテン語学習者のために」の「ラテン語を学ぼう――ついでに」を見てください。その第3課に研究「VerumとVeritas」があります(もう見た方もいらっしゃるかな?)。ある時期、違いが気になって「研究」したものです。
 結論的にスヴェーデンボリは使い分けていますね。verumが一般的な真理、veritasは特に主からの真理です(ヨハネ14:6)。こうした違いがわかるのが原典、それ原典を読む。
(1) 原文
8. Fides separata a veritate intravit et invasit ecclesiam cum dominio Papali, quoniam praecipuum tutamen religionis istius fuit ignorantia veri; quare lectio Verbi etiam vetabatur: alioquin non potuissent coli ut numina, ac sancti eorum invocari, ac in tantum introduci idololatriae, ut cadavera, ossa et sepulcra illorum sancta crederentur, et inde lucrarentur. Ex quo patet quam enormes falsitates fides caeca potest producere.
(2) 直訳
Fides separata a veritate intravit et invasit ecclesiam cum dominio Papali, 「真理」から分離した信仰は法王の支配のときに教会に入り、押し入った、
quoniam praecipuum tutamen religionis istius fuit ignorantia veri; その宗教の主要な保護するものは、真理への無知であったからである。
quare lectio Verbi etiam vetabatur: それゆえ、みことばを読むこともまた禁じられた。
alioquin non potuissent coli ut numina, ac sancti eorum invocari, ac in tantum introduci idololatriae, そうでなければ、神として礼拝されること、また彼らの聖徒が祈られること、またそれほどの偶像崇拝を導き入れることはできなかった、
☆invoco「(聖人などに加護を)祈る」
ut cadavera, ossa et sepulcra illorum sancta crederentur, et inde lucrarentur. 彼らの死体や骨や墓が聖なるものとして信じられ、ここから利益を得るように(ほどに)
☆utは単独なら「~のために」との訳も可能ですが、ここでは前にtantumがあるのでそれに呼応して「~のように(ut)それほどに(tanntum)~」と見るのがよいですね。
Ex quo patet quam enormes falsitates fides caeca potest producere. ここから、どれほどひどい虚偽を、盲目の信仰は生み出すことができるか明らかである。
(3) 訳文
 「真理」から分離した信仰は、法王の支配のときに教会に入り込んだ、その宗教の主要な保護するものは、真理への無知であったからである。それゆえ、みことばを読むこともまた禁じられた。そうでなければ、〔法王が〕神として礼拝され、また聖徒たちが祈られ、また彼らの死体や骨や墓が聖なるものとして信じられ、ここから利益を得るほどの、それほどの偶像崇拝を導き入れることはできなかった。ここから、盲目の信仰は、どれほどひどい虚偽を生み出すことができるか明らかである。
(1) 原文
9. Fides caeca etiam permansit postea apud plures Reformatos, ex causa quia separaverunt fidem a charitate; et qui separant illas non possunt non in ignorantia veri esse, et cogitationem quod ita sit separatam ab agnitione interna quod ita sit, nominare fidem, Apud hos ignorantia est tutamen dogmatum; nam quamdiu ignorantia regnat, et persuasio quod theologica transcendant, possunt loqui et non contradici, et credi quod vera sint, et quod ii intelligant illa.
(2) 直訳
Fides caeca etiam permansit postea apud plures Reformatos, 盲目の信仰はまた、その後、改革主義の教会の多くの者のもとにも継続した。
ex causa quia separaverunt fidem a charitate; その理由は彼らが信仰を仁愛から分離してしまったからである。
et qui separant illas non possunt non in ignorantia veri esse, それらを分離する者らは真理への無知の中にいないでいることはできない、〔二重否定〕
et cogitationem quod ita sit separatam ab agnitione interna quod ita sit, nominare fidem, そして思考は内なる承認から分離したそのようなものであり、信仰と名づけるものはそのようなものである。
☆直訳です。これでわかってもらいたのですが、そうもいかないでしょうね。「彼らが信仰と名づけるものは(真理の)内なる承認から分離した思考のようなものである」ことです。
Apud hos ignorantia est tutamen dogmatum; これらの者に(とって)無知は教義を保護するものである。
nam quamdiu ignorantia regnat, et persuasio quod theologica transcendant, なぜなら、無知が、また神学上の事柄は〔理解力を〕超えていることの〔誤った〕信念が支配する間は、
possunt loqui et non contradici, et credi quod vera sint, et quod ii intelligant illa. 話すこと、反駁されないこと、〔信徒たちが〕真理であること、彼らがそれらを理解すると信じることができる(からである)。
(3) 訳文
 盲目の信仰はまた、その後、改革主義の教会の多くの者のもとにも継続した。その理由は彼らが信仰を仁愛から分離してしまったからである。そして分離する者らはどうしても真理への無知の中にいないではおれず、彼らが信仰と名づけるものは(真理の)内なる承認から分離した思考のようなものである。彼らにとって、無知は教義を保護するものである。なぜなら、無知や神学上の事柄は〔理解力を〕超えているという信念が支配している間は、反駁させずに話すことができ、〔信徒たちが〕真理であると信じ、自分たちはそれらを理解すると信じるようにさせることができるからである。

ヘブル語は「動詞が中心となっている」言語

 つい近ごろ連載し始めた原典講読「信仰について」。そこでヘブル語を話題とした(6番)。そこで解説したように、聖書ヘブル語には「信仰」を意味する言葉が存在しない、このことはそうとうな驚きではなかったろうか。
 真理(アーメーンAMN)は動詞(アーマンAMN)から派生した語である。このように、ヘブル語ではほとんどの語は動詞から派生している。もう少し別の例を言おう。マラーク(MLK)は「支配する」という意味である。この読みを少し変えてメレク(MLK)は「王」である、マムラーカー(MMLKH)は「王国」である。すなわち「支配する」という動詞から、このような言葉が派生したのである。もう一つ、有名なヘブル語「シャーローム」を例にとってみる。語根はシャーラム(ShLM)で「完全にする・終える」その他の意味がある。これをシャーレーム(ShLM)と読んで「平和」意味が派生してくる。創世記14:18の地名「シャレム」であり、これがついには「エルーシャーレームYRWShLM」すなわち「エルサレム」となる。シャーローム(ShLWM)はShLMが語源で「完全・健全」それから「平和」となる。
 このようにほとんどの語は「動詞」から派生する。すなわち古代へブル人にとって、この世は「動詞の世界」だった。この世を「動詞」として見ていた(私たちはこの世を「名詞」として見ていませんか?)。
 この世は「動詞からでき上がっていた」。このことは私にとって驚くべきことだった。なお、うすうす感ずいているかもしれないが、動詞は基本的に3文字からできている。AMN、MLK、ShLMのように。Sh(シュ)は一文字である、もう一つの文字S(ス)と区別するためShとローマ字表記した(といって点が一つ付け足してあるだけの違い)。このことも衝撃的だった。
 そしてヘブル語はこの幹の3文字の読みを変化させ、前後にいろいろなもの付け足して(膠着語)、動詞を変化させ、分詞や派生語をつくったりする。ヘブル語は動詞中心の言語だった。