再度、翻訳について

 私はけっこう執拗です。繰り返しのようでも、も少し「翻訳」について思うところを述べよう。
 かの「養成講座」の冒頭で長島先生は言われた。「翻訳といっても、そのコツは二つだけです。まず原文(ここでは英文)の内容を汲み取ること。それからそれを〔よくわかる〕日本語に置き換える。これだけです」。別の言葉で言えば「理解力」と「表現力」だろうか。以来、このことは私の記憶に残った。
 長島先生は至極あっさりと述べられたが、大問題であろう。①原文を理解するには、文法や語法に熟達することも必要だが、何よりもその文で述べられている内容を理解できなければ、真意を把握できないだろう。たとえば、神を信じない者に(素地がない)、説教の翻訳ができるだろうか? 翻訳が単なる外国語の習得で、できることではないとわかる。②日本語に置き換える、といっても、達意の文を書く技術も必要であろうが、元来そのもとの概念を日本語で表現できるのだろうか? という疑問がわく。日本人にない概念だったら、その日本語も存在しないだろう。すなわち「造語」も含めて、日本語自体を見直さなければならなくなる。
 「神」という高度に抽象的な概念は他言語に伝達可能なのか? すなわち、キリスト教でいう「神」と日本人の持つ「神」概念はまるで別物。それを同じ「神」の言葉で表わしてよいものだろうか? このような思いが浮かぶ。一方、バベルの塔を建てたとき、主が全地のことばを混乱させたことも思い出す(創世記11章)。
 訳語一つを定めるにも、あれこれ苦悩する。しかし「さて、全地は一つのことば、一つの話し言葉であった」というように、霊界では普遍的な一つのことばが使われている(習得する必要もない)という。ここからすれば、さまざまな多くの言語も深いところでつながっており、伝達可能性についての疑問は吹き飛ぶ。さらに翻訳などということは、この世だけに存在するもの、すなわち、非本質的のものなのかもしれない。それでもこの世に生きるかぎり、翻訳はなくならない。

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