翻訳上の表現:直訳か、意訳か

 翻訳して、それを日本語で表現するとき、直訳か、意訳とするかに分かれる。
 長島達也氏(先生の呼称を付けたいところだが、故人なので略す)は「完全な意訳派」だった。直訳は「訳がこなれていない」として避けた。同氏から翻訳を少し学んだことがある。アルカナ通信に掲載するための論文の翻訳を頼まれ、その際、何度も、私のつたない訳文を読み、添削指導、助言していただいたのであった。それで私の翻訳の初仕事としての訳文はアルカナ通信に掲載された(91年5月号)。
 長島氏の指導内容の一つに、「訳文ができたら、声を出して読み上げてみよ」と言うのがあった。「自分の訳を読み上げ、奥さんに聞いてもらっている」と、自分の実践を語っていた。アルカナ出版の訳文が読みやすいのは、このことが大きいと思う。
 しかし、「読みやすい」のは一見良いことのようで、何かが失われる気がする。別の言い方をすれば、よく「角が取れて丸くなる」と言うが、これはよいことなのだろうか?
 私は翻訳に関しては、特に聖書や著作の訳では、極端な「直訳派」である。単語の配列からは始まり、文の長さ、できれば句読点の位置までも、原文と一致させたい。日本語の表現からすれば異様であってもそうしたい。私の翻訳の立脚点である。
 例をあげよう。英語で「Good morning!」は「おはようと」訳すであろう。内容から見れば「朝の挨拶」であり、それに相当する日本語は「おはよう(ごさいます)」であるから、意訳すればこうなる。
 しかし私は「〔あなたに〕良き朝を!」と訳したい。goodは「良い」morningは「朝」だからである。
 著作は(聖書も)内意が含まれている。特に「霊界体験談」の部分は表象にあふれている。それで、この例では「良い」「朝」に意味があるかもしれない。「おはよう」では、それが失われる。そして、このほうが英語圏では、朝の挨拶は「良き朝(良い朝ですね)」と言うことがわかる。誤解しそうなら、注釈を付け「これは朝の挨拶である」とすればよい。
 こうすると、きれいな日本語の表現ではなくなる。確かに読みづらくはなる。でも、私たちは何を読み取ろうとするのか。小説を読むのか。違う。思想、それよりももっと深い何かを読み取ろうとしてスヴェーデンボリの著作にいどむ。そのとき、読みやすさは二の次、三の次。とすれば、翻訳者は内容をできるだけ忠実に訳すべきであり、そのとき直訳となるのではないだろうか。
 読みづらい、ひっかかる表現の中に、「あれ、これ何を言ってんだろう」と立ち止まり、何かを見いだすかもしれない。
 私は聖書の異様な表現の中に、いろいろなものを見いだした。これがわかりやすい、普通の表現だったら、見逃しただろう。人間、角が取れて丸くなれば「人当たり」は良い、これが長い時間をかけて、自然とできたものなら「円熟味」と称して、尊重される。しかし、無理やり、削るようにして角を取ったんなら、のっぺらぼうでおもしろくない。適当に角があり、ひっかかるほうが、人間も訳文も考えさせられることにもなって、いいんじゃないかと思う。

コメントを残す