元を取るとは楽しむこと

 みなさんは「元を取る」ということを考えたことがありますか。あるとすればどのような時ですか。
 商売人ではないので、私が問うているのは、「人生で」、どのような「場面で」です。
 私は、「教員生活を無事終えた」、(ほぼ同時期の)「還暦を迎えた」とき、その他では「ヘブル語学んで、言語とは何かを自分なりに把握できた」ときなど、「元は取った」気がした。(感謝の念とともに、あとは「恩返し」でもしようか、てな気にもなる)
 話をラテン語の勉強・習得にしぼろう。中途半端に学んで、結局、ものにならないで、途中で放棄したら、それにかけた労力と時間(それと多少のお金)は「元が取れず」、むだになってしまう。やるならある程度のところまでやり、得るものを得なければ、なんにもならない。単なる暇つぶし。
 そうならないために、また結局、何にもならなくても、それでもよいためにはどうあればよいだろか。私のかつての趣味「山歩き」を考えてみよう。時間と労力をつぎ込み、苦しい思いをして山に登って、降りてくる。それだけのこと。山から下りてきた後、何が残るか。何もないかもしれない。元を取ることとは程遠い。ここだけ見れば、「苦しいだけだ」と言って、もう登らない人もでてくる。
 勉強も山歩きも同じだろう。山歩きのどこが楽しいかは別として、楽しまなければ、苦しいだけ。そこでやめてしまう。勉強が楽しければ(途中でやめることがあっても、でも楽しければやめないだろう)、それだけでもう半分は元を取っている。その勉強が役立ったら、それは余禄であり、ご褒美。
 私は「元を取ろう」という思いなどこれっぽっちもなく、しかたなしにラテン語を学んだ。その勉強が楽しかったので、それだけで「元は取れている」と思う。今ではなんとか原典が読めるので、元以上のもの得ており、このことにもやはり感謝している。

コメントを残す