「原典を読もう」の連載を終えて

 いつもながら青砥の「シンフォニーヒルズ」での日曜礼拝を終えての帰り道、駅のサイゼリアで、林さんと安ワインを飲みながらの四方山話。ブログに私の「雑感」を掲載し始めた頃。
 「雑談だけじゃ、よくないね。すこしゃ勉強になるものも載せたいね」、「じゃ、原典読解みたいなものをやろうか」、「ちょうどいいのがあるから、やってみようか」てんで、たいした考えもなく、ほんの思い付きで連載し始めたのがこの「原典を読もう」。
 「ちょうどいいのがある」とは、そのときちょっと目を通していたスヴェーデンボリ協会の小冊子「The Word of God」。神のみことばについて著作からあれこれ抜粋した手の平サイズの50ページに満たない本。もちろん英語。その抜粋個所を原典で学べばよいかな、と思った。
 その小冊子に、解説は一切なし。そして今回取り上げた分量はその半分に満たない。どこを学ぼうか、とあちこち探す手間は、この小冊子のおかげで省けた。(掲載順ももちろん異なる)
 始めるとき、先をどうするかの構想はまったくなかった。「まず行動してから、考える」の典型だったかもしれない。それでも、始めれば「どうにかなる」もんだった。無事に終了できたのは、主の助けが、ほんのわずかながらも働いたのであろう、と思う。
 さて、話題の向きをちょっと変える。私自身がこの講座を続け、学ぶ機会を与えられたことに感謝している。何かを学ぶとき、「教えてしまう」という、学習法がある。よくある話だが、何かわからないことがあったら、そのことについて「講演会を開く」「本を書いてしまう」というやり方がある。
 講演会に向け、著述について、よく調べ、準備しなければならないからである。
 私自身、この講座を楽しんで続けた(自分が楽しくなくっちゃ、人様はつまらないに決まってるだろ)。私は教員であった。授業もしかり。「教えることは学ぶこと」、講座中の私の説明がよかったかどうかわからない。それでも、「わかるように」また「正確な知識を」と私自身、いろいろな事柄を確認して進めた。それで「学べたことに感謝」する。
 「書くこと」と「しゃべること」の違いは何か。他人との会話は「頭の回転をよする」、相手の言うことの内容を汲み取り、話を続けるために、あまり間をおかずに考え組み立る。一方、「書くこと」に時間の制約はない。でも、文字として残るので、正確を要求される。
 すなわち、「ものを書くと、正確に、筋道だったものなる」。前述の「何かわからないことがあったら、そのことについて本を書いてしまえ」とはこのことでもある。
 今の私にとって勉強とは(ほとんど英語の文献なので)それを「翻訳してしまう」ことである。意味を汲み取って、自分の言葉にしないといけないから。(翻訳量が自分の勉強量をはかる指標となっている)

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