原典を読もう(『神のみことば』) No.30(最終回)

 しばらく文を眺めて、単語を調べましょう。キーとなる単語は何ですか? speculumですね。2度出てくるし。
Coram omni illo, qui statum mentis suae formavit a Deo, est Scriptura Sacra sicut speculum, in quo videt Deum, sed quisque suo modo. Veritates, quas ex Verbo discit, et per vitam secundum illas imbuit, illud speculum componunt.
 前置詞「coram」:~の面前で、~の目の前に。
 名詞「status」:(No.10ででてきたが学んでいないので) 状態。英語state。
 名詞「mens」:心、精神。一般的な心の意味もあるが「知的な心」をさすことが多い。
 動詞「formo」:形作る、形成する。名詞formaは英語formの語源。formal、formationなど。
 名詞「scriputura」:書くこと、書かれたもの。
 形容詞「sacer」:聖なる、神聖な。Sacra Cenaは聖餐、Scriptura Sacraは聖書、聖なる書物。
 名詞「speclum」:鏡。英語spectacle(光景)やspectator(目撃者)と関連がある。
 動詞「video」:見る。ビデオはこれが語源。英語のつづりもこのまんま。
 代名詞「quisque」:それぞれ、めいめい。
 名詞「modus」:方法、仕方、手段。英語mode(様式、流儀、モード)の語源。フランス語では女性名詞なら「流行」の意味だが、男性名詞なら「方法」など。ついでながら、ラテン語を語源とする語はフランス語のほうが英語よりもはるかに多い!(というよりもラテン語の方言がフランス語に見えてくる。フランス語にとってラテン語は親戚のおじさんだね)
 名詞「veritas」:真理。真理のうちでも特に主と結びつく真理。ほんものの真理(真理にほんものも偽ものもありませんが、こんなニュアンス)。
 動詞「disco」:学ぶ。deciple(弟子)の語源。
 動詞「imbuo」:(精神的に)吸収する、身につける、しみ込ませる。
 動詞「compono」:作り上げる。英語ならcompose。
 文の構造は――illoを説明しているのが「qui・・・a Deo」。次estが文頭にあって、「あれ、主語があったっけ」とまごつきますね。ありません。ここは倒置文。鏡の中にdeusを見ますが自分のmodoで。みことばから教わる真理とそれにしたがった生活で、鏡を作り上げる。複雑ではありませんでした。
 では訳してください。最後の課業です。
「自分の心の状態を神により形作ったすべての者の前に、聖書は鏡のようであり、その中に神を見る、しかしそれぞれが自分なりに〔見る〕。みことばを通して学んだ真理とそれにしたがった生活によってその鏡を作り上げる」(『真のキリスト教』6:2)
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 自分のまわりの世界は、自分の心を映し出す鏡です。外の世界と内なる心の世界はつながっています。ユングの心理学のようですね。自分の心が楽しければ、身の回りに楽しいことが起こる。
 聖書(みことば)もそうなんですね。そして、その中に自分の心の中にある神を見るんですね。どのような神が映し出されか、その鏡は各自が作り上げるんですね。曇っていたら何も見えない。
 雑念かもしれない、神社の御神体として鏡が鎮座していることを想起する。
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 以上で思いつきのようにして始めた「原典を学ぼう」を終わります。決して体系的ではなく、語り口に違和感を持つ人には読みづらかったかな、と危惧します。
 「ともかく、原典にかじりついてみる。かじって、何か味わえたら味わってみる」。私自身がこの気持ちで話しを進めてきました。原典がすこしでも身近なもの感じられたなら、幸いです。
 読者の方々、今後も学び続けてください。この「学びの機会」を与えられたことに、私も感謝しています(このことについては別に述べる)。ちょっと休憩して、「原典講読」を連載する予定です。

「原典を読もう」の連載を終えて

 いつもながら青砥の「シンフォニーヒルズ」での日曜礼拝を終えての帰り道、駅のサイゼリアで、林さんと安ワインを飲みながらの四方山話。ブログに私の「雑感」を掲載し始めた頃。
 「雑談だけじゃ、よくないね。すこしゃ勉強になるものも載せたいね」、「じゃ、原典読解みたいなものをやろうか」、「ちょうどいいのがあるから、やってみようか」てんで、たいした考えもなく、ほんの思い付きで連載し始めたのがこの「原典を読もう」。
 「ちょうどいいのがある」とは、そのときちょっと目を通していたスヴェーデンボリ協会の小冊子「The Word of God」。神のみことばについて著作からあれこれ抜粋した手の平サイズの50ページに満たない本。もちろん英語。その抜粋個所を原典で学べばよいかな、と思った。
 その小冊子に、解説は一切なし。そして今回取り上げた分量はその半分に満たない。どこを学ぼうか、とあちこち探す手間は、この小冊子のおかげで省けた。(掲載順ももちろん異なる)
 始めるとき、先をどうするかの構想はまったくなかった。「まず行動してから、考える」の典型だったかもしれない。それでも、始めれば「どうにかなる」もんだった。無事に終了できたのは、主の助けが、ほんのわずかながらも働いたのであろう、と思う。
 さて、話題の向きをちょっと変える。私自身がこの講座を続け、学ぶ機会を与えられたことに感謝している。何かを学ぶとき、「教えてしまう」という、学習法がある。よくある話だが、何かわからないことがあったら、そのことについて「講演会を開く」「本を書いてしまう」というやり方がある。
 講演会に向け、著述について、よく調べ、準備しなければならないからである。
 私自身、この講座を楽しんで続けた(自分が楽しくなくっちゃ、人様はつまらないに決まってるだろ)。私は教員であった。授業もしかり。「教えることは学ぶこと」、講座中の私の説明がよかったかどうかわからない。それでも、「わかるように」また「正確な知識を」と私自身、いろいろな事柄を確認して進めた。それで「学べたことに感謝」する。
 「書くこと」と「しゃべること」の違いは何か。他人との会話は「頭の回転をよする」、相手の言うことの内容を汲み取り、話を続けるために、あまり間をおかずに考え組み立る。一方、「書くこと」に時間の制約はない。でも、文字として残るので、正確を要求される。
 すなわち、「ものを書くと、正確に、筋道だったものなる」。前述の「何かわからないことがあったら、そのことについて本を書いてしまえ」とはこのことでもある。
 今の私にとって勉強とは(ほとんど英語の文献なので)それを「翻訳してしまう」ことである。意味を汲み取って、自分の言葉にしないといけないから。(翻訳量が自分の勉強量をはかる指標となっている)