in sensu interno sunt illa quae sunt vitae post mortem et quae aeterna, at in sensu litterae illa quae sunt vitae in mundo et quae temporaria;(AC1854:1)
これは次のようなものになりましたか? illaやquaeのさすもの、どこにsuntを補って訳したか確認してください。もちろん、別訳(表現の違い)は可能です。
内意には死後の生活に属するものがあり、それらは永遠のものである。しかし文字の意味の中には世の中の生活に属するものがあり、それらは一時のものである。
(数回読み直してみてください) われながら、すっきりした訳かと思う。
ついでに「vitaの訳語」についてやや述べよう。英語でlifeであり、いろいろな意味がある。死後の「生命」や死後の「いのち」とすると、「死」という語とややぞぐわない。死とはいのち・生命をなくすことだから。そして、死後にもその「いのち」が継続して働く場がある。すわなち、継続するのは「生活」である。それでvitaの第一番目の意味として「生活」がよいと思う。文脈でこの訳語がうまくあてはまらないとき、他の訳語として「いのち」などを考慮すればよい。
著作『Doctirna Vitae』についても「生命」(柳瀬訳・長島訳)では生物学の本のような気がしてしまう。その書の中で「主から新しいいのちをいただく」こともやや述べられているが、大部分は「悪を避け、善を行なえ」と勧めている。すなわち、そのように「生きろ・生活しろ」ということである。それで題名は「生活の教え」、「生活について」、「生活」がよい。
ともかくまとめましょう、「内意には永遠のものである死後の生活に関することが述べられている」のですね。表面上ではこの世のことしか述べてないように見えても。と、いうことですね。
では次の宿題に移ります。
Quod Sensus Litterae Verbi sit Basis, Continens et Firmamentum Sensus Spiritualis et Caelestis ejus.
原著に「第三章」の言葉はありません。編集上の区切りです。「見出し」なので全部大文字となっています。初版の形は次のようです。
Quod sensus literae Verbi sit Basis, Continens et Firmamentum sensus Spiritualis et caelestis ejus.
動詞はsit(~である)だけ。basis、continens、firmanentumの意味を確認すればO.K.ですね。
名詞「basis」:土台、基礎、基盤。英語のbase。
形容詞「continens」:容器として役立つ、容器の。この動詞contineo →英語contain →container(コンテナ)。
名詞「firmamentum」:基礎、支え、支柱。英語firmと関連する。
簡単ですね。「みことばの文字(通り)の意味は、霊的で天的な意味の土台、容器、支柱である」。
* * * * *
これだけだと見出しなのでよくわかりませんね。それでこのことを説明した続きの文を宿題にします。
In omni Divino opere est primum, medium et ultimum, ac primum vadit per medium ad ultimum, et sic existit et subsistit; inde ultim est Basis. Tum, primum est in medio et per medium in ultimo; ita ultimum est Continens. Et quia ultimum est continens et basis, est etiam Firmamentum.(SS27)
日: 2008年4月17日
「原典を読もう」について
連続講座「原典を読もう」の趣旨は (1)原典を読む、(2)ラテン語のあらまし(文法事項)を知る、(3)スヴェーデンボリの神学思想について考察を深める、であった(3月30日のブログ「宿題について」)。
私も雑談を楽しみながら、もう25回となった。楽しめているでしょうか? おもしろくて、それが勉強になる(ためになる)なら、最高。授業や講演はそうあるべきです。しかし、長いとダレて、興味も薄れます。それで区切りよくあと5回でしょう(後にまとめた形にしたとき「原典を読もう30講」なら読む気がするけど、これが50講、100講では尻込みしますよね)。
この講座は上記の趣旨で始めても、根が雑談好きだから、どうしても話はわき道にそれる。でも、それでいいんじゃない。どだいラテン語をやってみようなんて人はある程度「浮世離れ」しているんじゃないかな(別の言い方は「オタク」)。「効率」なんてそっちのけ。おもしろけりゃいいんだよね。
ラテン語という「高尚な散歩」をするんなら、低俗なわき道(この講座のこと)で道草を食うこともありですよね。まともな遊歩道よりも、わきに逸れたほうがおもしろい発見があるかもしれない。
昨日は鈴木大拙まで登場させた。大拙は(もうわき道だ)、スヴェーデンボリの著作を日本に最初に紹介し、出版した。ロンドン・スヴェーデンボリ協会の援助で、ラテン語まで学んで『天界と地獄』その他を訳したという。しかし、ラテン語はたいして学ばなかったように見える。先駆者として、訳語には苦労したようだ。大拙の用いた訳語を研究すれば興味深いかもしれないが、これは完全にオタクの世界となってしまう。charityの訳語を仁慈とし、これを柳瀬が受け継いだ。これは現在(長島・私)「仁愛」となっている(世間では博愛とすることもある)。
さらに講座では、「どのように訳すか」といった翻訳上の問題にも多く触れるようになった。「だれそれはこう訳す」というような訳者にも言及した。こうしたことも、ま、いいんじゃないでしょうか。
改めて翻訳者「柳瀬芳意」について語ろう。
翻訳者:柳瀬芳意(スヴェーデンボリとの出会い)
柳瀬芳意:1908年(明治41年)10月15日出生。2001年(平成13年)1月10日逝去(92歳)
はじめに、スヴェーデンボリの神学著作全巻の翻訳出版という偉業達成に、同氏に敬意と感謝を表明する。同氏は日本に多大な真理の種を蒔かれた。その訳書に触れて、おかげで私もスヴェーデンボリを学ぶ道へと足を踏み入れた。1年間と少しであったが、晩年80歳の同氏と親しく接することができた(私42歳)のはありがたく、貴重な思い出である。
柳瀬がスヴェーデンボリに出会ったいきさつは、静思社発行(1989年11月)の機関誌『日本新エルサレム教会』第46号(宗教法人成立記念特集号)の中の同氏による「主イエスさまの教えに生きんとして」の記事に詳しいので、以下に抜粋する。
* * * * *
……当時わたしの卒業した中学校の先輩で高沢保さんとい言う方がいましたが、この人は大阪市の……神学校におり、この方にいろいろと相談をし、わたしもその神学校に入学しましたが、色んな事情から、翌年東京神学舎に、高沢さんらと共に転校し……(高沢さんは)卒業後,金井為一郎牧師の牧する市ヶ谷教会の服牧師に任ぜられ、伝道に携わりました。……〔柳瀬芳意は神学校を中途退学し……家にとじこもっていた。その頃、高沢氏の「蔵書整理」を依頼される〕
……大半は英語、ドイツ語の書物でしたが、それらを整理して、神学校――今の東京神学大学の前身――へ寄付してほしい、との依頼です。そのさい、久子さん〔高沢氏の奥方〕は次の意味の言葉を言われました。
「ずい分、保は苦しみました。でも死の五分前の頃でしたか、突然、苦しみにゆがんだ顔から――すばらしい、すばらしい――という声が聞こえたのです。多分その時,霊眼が開けて,あの世が見えて来たのでしょう」。
この言葉はわたしの心に突きさゝりました。わたしはこの若い伝道者の最後の五分間を「小説」として書きたい、という熱望に燃えたのです。それにはどうしても,この高沢さんが,折にふれ,わたしに話してくれたイマヌエル・スエデンボルグさまの著作を読まねばならない。そのように感じて、わたしは久子夫人に、整理を頼まれた蔵書の中から英訳されたスエデンボルグさまの『天界と地獄』,『真のキリスト教』の二冊を所望いたしました。……
高沢さんの死の直前の最後の五分間を書きたいとの熱意に燃えて、わたしは久子夫人からいたゞいた、英訳の『天界と地獄』,『真のキリスト教』の二冊を読み始めましたが、主さまは全くわたしをわたしの予想だにしなかった方向へ導いてくださいました。『天界と地獄』を読んだ時にはさほどにも感じなかったのですが、『真のキリスト教』の中の「意志の自由」にふれた時の歓びと感激はわたしの全心をふるわせました。これこそわたしが神学校在学中から知ることを求めた問題でありその解答が与えられているではありませんか!
それは皆様も充分御承知の次の言葉です。
「人間には善を欲する、または実践する人間自身の力、或いは能力はない、しかし神から流入する善を受容し、実践する能力は害われてはいない」……
* * * * *
高沢は1938年1月、柳瀬が29歳のとき亡くなっている(このことを次回に語ろう)
この話は、私が日本新エルサレム教会に出席していたときにも、同氏から直接に、説教中に聞いた話である。そのとき「(『イワンの馬鹿』などの作家)トルストイの真似事をしたかった、小説家になりたかった」とも言っていた。小説家としての望みもあったようである。しかし、ここで知った真理と、その喜びが柳瀬を(予想だにしなかった)訳業へと向かわせた。