補足:「おふくろさん」

 昨日、「原語・原文に向かう」の中で例としてあげた「森‐川内」問題。簡略すぎたので再論しよう。
 世の中には謝ろうとしている森進一を門前払いする川内康範をがんこじいさんと見て、森を被害者としてしまう人がいるかもしれない。森はあくまでも加害者である。
 川内は勝手にアドリブをつけた森を「志が違う」と非難した。で、「おふくろさん」の歌詞をじっくり見た。そこに「いけない息子の僕でした云々」の言葉をとうてい被せることはできない。
 3番の歌詞を見よう。山を見て、「・・・おまえもいつかは 世の中に 愛をともせと 教えてくれた」母を想うのである。1~3番を通して、人生の生き方を教えてくれた母を追慕している。確かに「志」が違ってしまう。
 川内は(無断で)勝手なせりふがついているのを知って、何度も取るよう言った、それを森は何の返事もなく無視し続けた。「紅白」で歌うことになり、それでこれが最後の申し入れとなったが、変わらなかった。それでプッツン。
 ここからの自戒として、私もスヴェーデンボリの神学著作を勝手に解釈し、自分のよけいなせりふを付け足してしまうことを恐れる。

原典を読もう(『神のみことば』)  No.18

 宿題は次の文を通して訳すことでした。
quod cognitio de Deo, et inde agnitio Dei, non dabilis sit absque revelatione; et non cognitio de Domino et inde agnitio quod in Ipso omnis plenitudo Divinitatis habitet corporaliter, quam ex Verbo, quod est revelationum corona;
 次のようなものになりますね。
「神についての知識、ここから神の承認、このことは啓示なしにありえないし、主についての知識、ここからその方の中に神性が満ち満ちて肉体の形をとって宿っていることの承認も、啓示の冠である、みことばからでなくてはありえない」
 では、後半を勉強(答え合わせ)しましょう。(pottestはpotestのミスプリ、ごめん)
nam homo ex data revelatione potest obviam ire Deo, et influxum recipere, et sic a naturali fieri spiritualis;
 pottest これは? と疑問に思いましたか? 「きっと potest の間違いだろう」と気づくのも実力のうちです。人間のすること、どうしてもミスが入り込みます。そうしたこともある程度、念頭に置かなくてはなりません。さて単語は――
 副詞「obviam」:向かい合って、会いに。
 動詞「eo」:初心者の方はここの「ire」をどうされたでしょうか? これは果たして何なのか? と途方に暮れている姿が浮かびます。私もそんな時がありました。
 アルカナ訳は「神にむかい」と訳してあって「ire」らしきものがない。英訳には(参考にしている人はいますか?)「approach God」とあり、これもよくわからない。どうしたものか?
 最初はこうなんですよね。すこし勉強すればわかってくるんですが、それまで辛抱できるかどうか(そこが岐路)。
 これが重要な不規則動詞「eo」。なぜ重要かといえばここに接頭辞をつけた動詞が多くあるから。たとえば「exeo」(=ex+eo)は「外に+行く」で「出る」は eo と同じ変化をするから。
 この不定法が「ire」、意味は「行くこと」。初心者泣かせですね。
 名詞「influxus」:流入。よく出てくるのですぐ覚えてしまう単語。
 副詞「sic」:こうして、このように。これもよく出てくる。
 これで訳せます。文法的な補足事項としては possum は「不定法」をとって「~できる」という意味になります。ここで potest の対象は ire, recipere(受け入れること), fieri(~となること)です。
「なぜなら、人間は与えられた啓示から、神に会いに行くこと、流入を受け入れること、こうして自然的なものから霊的なものになることができるから」
 ここからの感想は各自にまかせます。ここでアルカナ訳に言及したので、それについて私の批評を述べます。『真のキリスト教』は柳瀬訳がありますが、訳が古いので読みづらく、多くの方はアルカナ出版の長島訳を読んでいるかと思います。
 この個所の訳は――「人は啓示が与えられると、神に向かい、その流入をうけ、自然的人間から霊的人間になっていきます」。
 「そうとうな意訳」というよりもこれでは「自由訳」に近いです(自由訳とは原文の意を汲んで、新たに文を構成すること)。まず「与えられると」と ex を「と」としています。原文のpossum「可能となる」が訳出してありません。次は意訳の範囲でしょうが「自然的人間から霊的人間」としています。
 ここから私は長島訳を「読みやすいけれども、長島さん独自の表現法も織り交ぜた、かなり思い切った(個人的な解釈も反映させた)意訳をしている」と感じます。
 私は、著者の意図を生かすにはできるかぎり直訳が望ましい、と思っている(それでも、翻訳者の解釈がどうしても入り込む、翻訳の宿命)。
     * * * * *
 ではやはり宿題。「信仰」はどのようにして生まれるのでしょうか?
insinuatio fidei per viam internam fit per lectionem Verbi, et tunc per illustrationem a Domino, quae datur secundum affectionis quale, hoc est, secundum finem sciendi verum.(AC8078:4)

原語・原文に向かう(続き)

 前日、翻訳物の限界を「訳語」だけに絞って2点紹介した。(1)「life」の例のように、原語では同じ言葉が別の訳語となる場合。(2)「愛する」のように、原語では別の言葉も同一の訳語となる場合。
 原語がどのような概念を反映する言葉なのか、厳密に知るため、その言葉が聖書の他の箇所でどのような文脈の中で使われているか調べようとするとき(そのために「コンコーダンス」(用語索引)というものがある、下記参照)、上記の二つとも非常な障害となる、というよりも日本語の意味に埋没してしまう。
 それよりも、研究の意味をなさない。たとえば「愛する」とはどういうものか知ろうとして、聖書の「愛する」のいろいろな部分を調べて、「キリスト教でいう、愛とはこんなものかな」と概念を形成しようにも、その「愛する」に2種類ある(それ以上かもしれない)と知らなくては、砂上の楼閣となってしまう。
 聖書をより深く、厳密に読もうとすれば、それで、どうしても原語の知識を必要と感じたが、目標は極めて限定的であった。①翻訳する必要はない(翻訳すでに存在する、英訳には『欽定訳聖書』というすばらしい訳もある)。②したがって文法知識もいらない。
 私が獲得したかった知識は「原文ではどんな単語が使われているか、その同じ単語が他の個所のどこに使われているか」であり、これがわかればよかった。(目標設定のコツは①明確な②身近なもの)
 すなわち、辞書が引けて、コンコーダンスが活用できればよかった。しかし、これがむずかしい。ラテン語でもそうだが、辞書を引くには、ほぼ初級程度の知識は終えていないといけない。すなわち、格変化と活用、それと不規則動詞のおもなものが頭に入っていないと、苦労する。
 ヘブル語、ギリシア語はラテン語の比ではなかった。特にヘブル語。少し学んだだけでは辞書はとうてい引けるようにならない。そうした話はまた次に。
★「コンコーダンス」について。
 聖書にはコンコーダンスというものがあります。ある言葉(単語)が聖書のどの箇所に登場するか、全部調べ上げ、その場所とその語を含む一行ほどの短文を羅列した本です。英語のコンコーダンスでいえば最初の項目は「アロン(モーセの兄ですね)」であり、出エジプト記4:14が初出で、ズラッーと続きます。するとandなどという接続詞は? これも載っています! さすがに文は載せません、出てくる個所がとんでもない量ですが、載っています。私が利用したのはおもにヘブル語のコンコーダンスです。スヴェーデンボリの著作についてはJohn Faulkner Potts師が六巻ものの大部を完成しています(各巻900ページほど。どうしてこのように大部となるかは、著作の分量に加え、該当する単語を含む掲載の文が長いからです)。これはスヴェーデンボリ研究者には必須の図書です。

ラテン語レキシコンの表示スタイル変更

このブログの本体である「スヴェーデンボリのラテン語」で掲載作業が進行中の”ラテン語レキシコン“の表示スタイルを”L”の項目から変更しました。
これまでの表示にはいろいろと問題があり、今後の展開を考えて、全面的に新たな表示スタイルに移行することにしました。
これまでより、文字が大きく読みやすくなりました。それだけでも、ずっと使いやすくなると思います。
これからも新たなデータの掲載を続けつつ、過去の掲載分についても、順次、新しい表示に変更していきます。