原典を読もう(『神のみことば』)  No.17

 宿題:どうでしたか? 次の前半だけを学びましょう。
quod cognitio de Deo, et inde agnitio Dei, non dabilis sit absque revelatione; et non cognitio de Domino et inde agnitio quod in Ipso omnis plenitudo Divinitatis habitet corporaliter, quam ex Verbo, quod est revelationum corona;
 全体を知るために、先に単語を調べます(個々の単語の意味から全体を把握することもあります)。
 名詞「cognitio」:知識、認識。この動詞は cognosco(知る)。
 副詞「inde」:ここから、そこで、それゆえに。
 名詞「agnitio」:認知、承認。単に知る(cognitio)だけでなく、「認める」わけですね。
 形容詞「dabilis」:存在可能な、ありうる。
 ここで一区切り、訳してみましょう。「神についての知識、ここから神の承認、〔このことは〕啓示なしにありえない」となりますね。(感想)「そのとおりですね」
 形容詞「omnis」:すべての。ここは次の聖句の引用となっています――「In Christo Jesu habitat omnis plenitudo Divinitatis corporaliter」(Coloss. ii. 9)「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形を取って宿っています(新改訳聖書)」(ずいぶんな意訳ですね)。
 名詞「plenitudo」:満ちていること、充満性、完全性。英語なら plenitude。
 名詞「divinitas」:「神性」。
 動詞「habito」:住む、居住する。ここから転じて「宿る」。
 副詞「corpolaliter」:肉体の形で。
 ここでいったん区切ります。ここの文は non の後に「dabilis sit」が省略されていると見なします。直訳すれば「主についての知識、ここからその方の中に“神性が肉体の形をとってすべて充満して宿っている”ことの承認も〔ありえ〕ない」となりますね。(それでも完全な直訳はむずかしくて、「すべて充満して」と副詞かのように訳しました)
 さて最後、
 副詞「quam」:否定の後で「~でなく、~を除いて、~のほかは」。(この訳語は『羅和』にありません)
 名詞「corona」:冠、英語も corona。太陽の周囲の炎はコロナ。
 で、最後の部分の訳は「みことばからでなくては、それは啓示の冠である」となります。これではなんだかわかりませんが、わざとこうしたのは→
 ←では以上の三つをうまくつなぎ合わせてください。【宿題】とします。やり残しの後半である次の部分も【宿題】とします。
nam homo ex data revelatione pottest obviam ire Deo, et influxum recipere, et sic a naturali fieri spiritualis;
     * * * * *
 「啓示の冠」とは、古代からいろいろな啓示があったけれども、現在の「みことば」(新教会のおしえでは「聖書」と「スヴェーデンボリの神学著作」を意味します)がその頂点(=冠)であることです。
 現在の私たちには「みことば」からの啓示がなかったら、神、主について何もわからない、ということですね。なお、「コロサイ人への手紙」第2章9節はよく引用されます。おもな箇所は、結婚愛82、真のキリスト教101,137,188,294,379,638,655,698,798です。
 ここで補足として「学び方」の一例を述べます。
 画面を眺めるだけでなく、原文を紙に書き下してください。その文字を眺めてください。そして各単語の下にその訳語を書いてください(こうしたものを「逐語訳」と言います)。そうすると、文の「構成」がよくわかります。時間がかかって回り道なようでも、結局よく理解できます(「急がば回れ」)。その後「訳文」を考えます。

原語・原文に向かう

 聖書を読み始めた頃、またそれ以前から、聖書がヘブル語(旧約部分)とギリシア語(新約部分)で書かれていることは一般的知識として知っていた。また、ギリシア語の文字は全部、ヘブル語の文字についても一つ(アーレフ)は知っていた。数学で使うからである(ヘブル語の最初の文字アーレフは「集合論」で第一種の無限の数を表わす)。普通の人でもα、βやπ(円周率)は知っている。
 時は流れ、37歳のときから『天界の秘義』を読み始めた。「内意」があることを知った。聖書が「対応の言語」で書かれている。霊的な事柄と天的な事柄を述べるとき、「霊的と天的で、原語では言葉を使い分けている」と知った。「すごい! 深い!」と感じた。
 私は何でも自分でやってみないと気がすまない性質(たち)である。そのすごさ、深さを味わうには、実感するには原語の知識が必要だと感じた。たとえば、音楽を鑑賞するにも、すこしでも楽器をやれば(私がそうである)、より深く味わえる。そしてバッハが好きになる(これは余計な話か?)。
 この際、雑談しよう。バッハはとっつきづらい(?)かもしれない。通俗音楽とはやはりかけ離れている気もする(なおスヴェーデンボリはオルガンでバッハを演奏したらしい)。しかし、楽器をやる人間はたいてい好きになる。やってこそ初めてその味がわかるのかもしれない。
 バッハの曲を一つだけ紹介します、無伴奏バイオリン独奏曲の「シャコンヌ」です。聴いたことのある人は「ああ、あれか」。聴いたことのない人はぜひ私のお勧め「名曲中の名曲」を味わってみてください。
 それ以外にも「翻訳物の限界」を感じていた。
 最初にここで最近話題となった「森-川内」を例に上げよう。川内にとって「おふくろさん」は「無償の愛」の代名詞であった。ところが森はアドリブ「いつも心配かけてばかり いけない息子の僕でした・・・」を頭につけた。これでは「おふくろ」が単なる母親になってしまう。作詞者の思いとはかけ離れる。同じ「おふくろ」という言葉が、個人の間で意味合いが異なる。
 さて、同じことは他言語の間でいえる。二つの言語の間で同じ概念を共通する言葉が存在するとはとうてい思えない。その言語を使用する民族の歴史、文化さまざまなものが異なるのだから。
 日本語の「蛙」は英語の「fog」だろう。と、ことはそんな単純なものではない。日本人が蛙にもつ概念は「古池やかわず飛び込む水の音」「あれは蛙の銀の笛(でしたっけ?)」というように不潔な動物のイメージはない。歌に詠まれ、コロコロとその鳴き声は称賛される。
 ところが西洋では湖沼に住む不潔な動物であり、ゲロゲロとその鳴き声は耳障りな雑音でしかない。このことを知らないと「出エジプト記」第8章の「かえるの出現」が、なぜ「わざわい」なのかわからない。ここからは「fog」を「蛙」と訳して「事足れり」とならないことがわかる。その象徴的意味を暗に意図して「fog」を持ち出したかもしれないからである。
 ましてや相手は「聖書」である。どんな意味が込められているか想像もつかない。(汲めど尽くせない)真意にすこしでも迫るにはその書かれた原語を知るしかない。
 そうでなくとも「訳語」そのものにも問題を感じていた。このように言語の間で、ある言葉の内容を表わすのとまったく同一の内容を表わす言葉が存在しないとき、訳語は一つにしぼれない。life という言葉でいえば、場合によっては「生活」であり、「いのち」でもあり、「生涯」でもある。
 また、同じ「愛する」と訳されていても原語が異なることがある。そのよい例が「ヨハネ福音書」最終章のイエスが語られた「愛する」である。イエスはペテロに3度「わたしを愛するか」と尋ねられたが、最初の2度と3度目は異なる言葉を使われた(新改訳聖書の脚注を見られたい)。「何だこれは!」。私にとって見過ごすことができない。それやこれやで原語に向かった。