原典を読もう(『神のみことば』) No.11

 【宿題】は次の文の翻訳。できましたか?
(quod Verbum Domini sit littera mortua,) sed quod in legente vivificetur a Domino secundum cujusvis facultatem; et quod vivum fiat secundum ejus charitatis vitam et innocentiae statum, (AC1776)
 「主のみことばは死んだ文字である(こと)」に続いて、前半は「しかし、読んでいるとき、それぞれの(者の)能力にしたがって、主により生かされる(こと)」。同趣旨の別訳として「~各人の性質に応じて~」とも訳せます。これだとちょっと雰囲気はちがいますね。
 後半もできたでしょうか? vivum fiat をどう訳すか、ちょっととまどいます。「生きている」その状態に「なる」、この二つをうまく結び付けたい。「生きているようになる」と「ように」を補うか、「生きる」としてしまい「なる」を(吸収させて)、見かけ上は省いてしまう、など考えられます。
 「そして、彼の仁愛と無垢の状態にしたがって、生きるようになる(こと)」
 一つ単語の説明を落としましたね。「ejus」です。辞書を引くと、田中『羅和』も「レキシコン」も is の単数・属格とわかります。「それ」という意味であり、三人称の人称代名詞としても用いられます。
 全体を通してみます。
「主のみことばは死んだ文字である。しかし、読んでいるとき、それぞれの者の能力にしたがって、主により生かされる。そして、その者の仁愛と無垢の状態にしたがって、生きる(ようになる)」
 ここには「みことばが生かされるも、死ぬも、読む側の問題である」ことが語られています。なにごともそうですね。どんな立派な教えでも、聴く側がいい加減なら、値打ちが下がる。熱心に聴けば聴くほど、そこから学べるものも多い(この「原典を読もう」もそうですよね?)。みことばを生かすのは結局、自分自身。
 そして、最後に最大の教訓があると思います。みことばを読む者に、それを「生かして」読みたい者に求められるものは「仁愛」と「無垢」です。聖書の知識、ましてやラテン語の知識などではありません。
 心に仁愛がなかったら、無垢がなかったら、みことばは生きたものになりません。死んだ単なる知識欲を満たすだけのものとなります。
 「仁愛」とは人を愛すること。「無垢」とは幼児のような純粋な(汚れのない)心。
     * * * * *
 では宿題。ヒントを語っておきます。主は特殊な存在ではありません。だれのもとにも遍在されます。
Dominus cum unoquovis homine loquitur, nam quicquid est bonum et verum quod vult et cogitat homo, est a Domino:(AC904:1)

数学の試験:何でも見てよい

 「入試問題」について語った。私の教員時代を語ろう(いくらでも話題はある)。そのうちの「試験」について。
 だれもが試験はいやですよね。それでなるべく生徒に負担にならないよう考えた。「(試験では)何でも見てよいことにしてくれ」という生徒が多い。「そうか、そうしよう」となる。
 私はずっと「何でも見てよい」試験を課してきた。教科書・ノート・プリント類など持ち込み可である。もちろん「他人の答案」を見てよいはずはない(なお、かつて国語科に辞書を持ち込んでよい試験があった)。
 「それじゃ、試験になんない」なんて言う者がいる。試験とは覚えてくること、記憶を試すものと思い込んでいる。数学の場合、論理的思考力が問題となる、そして社会に出て、どんな問題であってもそれを解くときにはいろいろなものを参考にするのは当然。試験でそれをやったまで。
 すると、教科書にあるような、基本的なものでなく、相当難しい問題だな、と思うかもしれない。やさしい。教科書にも載っている問題を出題する(たとえば、記号A,B,Cを記号P,Q,Rに変えて)。
 定時制なのでそれで十分に試験になる。私のねらいは、「十分に用意してきた者が高得点が取れる」こと。別の言葉で「(試験の)準備した者が勝ち」。なのにこの期待を裏切って、「何でも見ていいんだから、教科書を持ち込んで、うまいこと同じ問題が出ていたら、それを書き写せばいいや」てんで、楽勝科目とみなし、全然やってこない者が(いっぱい)でてくる。
 私もバカしゃない。やっぱり準備してこなけりゃ、解けないような問題にする。
 結局、結論はどんな問題形式にしても、きちんとやっていた生徒が良い成績を取る。
 なお、試験の成績は全部公表した。だれが、といってもペンネームだが、どれだけ得点しているか、もっと詳しくいえば、同じで試験100点に近い得点者もいれば、0点もいる、この事実をちゃんと知ってもらいたいからだった。ペンネームについては「できない子」なんてがあるが、ときどきうまいものがでてくる。そうしたときにはペンネーム大賞を与えたりした。私は「大先生」を自称していた。するとペンネームに「鈴木大先生」なんてのがあった。
 成績は(サボりは別だが、辛くなんてしない)なるべく良い成績を与えた。生徒によく「(5段階評定の)成績5をとってくれよ。5をもらうと気持ちいいだろ、出すほうの私だって気分いいんだから。(5の数は)いくつまでなんて決まっていないんだから、ちゃんと勉強してくれりゃ、ドンドン(5を)出すよ」と言ったものだった。それでも5をもらうのはクラスに一人か二人。親の心、子知らず。