「遅読」という言葉があるのかしらない。おそらく私の造語だろう。速読に対するアンチテーゼのつもり。
世の中に『速読法』の本をよく見かける。全然興味がない。内容によって読む速度が(自然と)変わってくるのは経験済みだからだ。ものを読むとき、それに適した速さがある。どうでもよいものをだらだら読むのは時間の無駄、そして逆説に聞こえるかもしれないが内容を把握したい時も早く読む必要がある。すなわち、ある内容を一定時間のうちに把握しないと、論理の筋を見失ってしまうからである。
しかし、「これは」といったものは、じっくり読む必要があり、そうしたとき、読む速さは遅く、一定している。『天界の秘義』を読んでいる時は、ある程度以上早く読むことはできないというよりも、一定の速さで読んでいることに気がついた。そして、しばしは思索にふけり、読書は中断する(補足すれば、工事なども適した速さがあり、工事を急ぐと、どこか無理をして、そこから欠陥を生じ、結局工事をやり直さなくてはならないハメとなる)。
わざとゆっくり読むことも必要だろう。一行読むのにどれだけ多く時間をかけられるか、試してみることである。道を歩く時、目的地へ急ぐことをせず、できるかぎり「道草を食う」のである。もうこれ以上同じ場所にとどまっておれない、と思ったら、先へ進む。こんな読書があってよい。
作家の太宰治は(「イスカリオテのユダ」などキリスト教を題材にして短編を書いている)「マタイ福音書」を読むのに一年かかったとのこと。はたしてどのような読み方をしたのか。
くどくなるが速読が無意味なことをつぎのたとえで示してみよう。美術館に行った。名画が展示してある。A君はそこで50枚鑑賞した。B君は3枚しか見なかった。どちらが「鑑賞」しただろうか? 枚数が問題にならないこと、鑑賞の速さが問題にならないことは明らかだろう。
ここで「原典を読もう」を連載することにした。おそらく1回で原典の1行すら読めないかもしれない。それでもよい。翻訳物を100ページ読むよりも、原典を1行読むほうが勝っていると思う。
急ぐことはない、ゆっくり道草しよう。急いだ先に何があるというのか? ゆっくりとは今を楽しむことに通じる(だらだらではありません、念のため)。
月: 2008年3月
『遅読の讃』
前記の「遅読」で思い出すのは、関口存男先生の『遅読の讃』という一文です。このことばは50年以上前にすでに使われているのです。
「辞典と首っ引きでポツポツ読む外国語には、その遅々たるところに普通人の気のつかない値打ちがあります。それは“考える”暇が生ずるということです。…“人間”というやつは、とかく、考えないように考えないように出来ている。スラスラ読める母国語ばかり読んでいると、うっかりすると上わすべりした、ツルツルした、平坦な人間になってしまうおそれが充分にあります。
この平坦なツルツルした意識にブレイキをかけて、否でも応でも一個所を凝と眺めて考えさせるという効果、―外国語をやる主な目的は此処にあるのではないでしょうか?」
1956年の記事で、私が読んだのはそれからずっと後のことです。とても、面白い文なので、全部読んでいただきたいと思いますが、まだ著作権が残っているので、部分的な引用にとどめておきます(『関口存男の生涯と業績』S42, 三修社・残念ながら入手困難!)。
関口存男という方は、語学の天才と呼ばれ、私の世代で、少し熱心にドイツ語を学んだことのある人なら知らない人はいないほどの凄い先生です。法政大学や慶応大学でドイツ語を教える前には、アテネ・フランセというフランス語の学校でラテン語を教えていたという履歴もあります。授業はフランス語で行なわれたそうです。終生、一度もドイツに行く機会はありませんでしたが、NHKラジオのドイツ語講座を受講したことのある人の話では、そのドイツ語はゲストのドイツ人とも遜色がないほど流暢で、驚いたということでした。
英語圏の斉藤秀三郎とならび称され、ドイツ語の関口存男と言われています。
若い頃、ドイツ語をいっしょに勉強していた私よりのかなり年長のある神学生に私が、「ほんの少しのドイツ語を理解するのに、何時間もかかってしまう」と私がぼやいたとき、「短い文章を何時間も考えられるなんて、君はすごい」と褒められたことがあります。
彼の発言は皮肉ではなく、やはり「遅読」の勧めだったように思います。
原典を読もう(『神のみことば』) No.2
【宿題】をやってみたでしょうか? (昔、先生からこう聞かれて「忘れました」と答えたことはありませんか? 忘れるような人はこのサイトを再びクリックしたりしませんよね)
宿題は「家」でやるのでなく、その場でやってしまいましょう。
quod postquam Verbum datum est Dominus per id solum Se manifestet,
「みことばが与えられた後、主はそれ(=みことば)だけを通してご自分を現わされる」
どうでしたか? 教え方がよかった(?)ので、みなさん、ほぼこのとおりだったでしょう。「現わされる」は「明らかにされる」と訳してもO.K. みことばの中に「主の臨在」を見る人にとっては「現われる」であり、みことばの真理によって人生観・世界観なりが明らかにされたと感じる人には「明かされる」ような気がするでしょう。
今日は後半の勉強。
nam Verbum, quod est Divinum Verbum, est Ipse Dominus in caelo et ecclesia;
文を眺めるとカンマで区切られています。A, B, C の構造をしています。動詞は2つあります、同じest「~である」です。何が頭で何がしっぽでしょうか? 別の言葉でいえば、主語と動詞は? すなわち、ここの est は「AはBである」、「A = B」の「=」の働きをしています。それで「A」と「B」は何ですか?
知らない単語は caleo と ecclesia ですが、これは著作に非常によく出てくるのですぐ覚えてしまいます。caelum「天界」(しかしスヴェーデンボリ自身は coelum と綴っています)と ecclesia「教会」です。それと接続詞「et」と前置詞「in」。
et は英語の and と同じ。「~と~」「~や~」と訳せばよい。私は「飲み」et「食う」のように動詞が並ぶ場合などよく「、」と訳します。このほうがすっきりするからです。すなわち「飲み、食う」。et はこれほど軽い存在と思ってください。(et が文と文をつなぐときは「また・そして」などの訳語で連結します)
前置詞は接続詞と同じく変化しませんが、「格支配」というものがあります。(1) 対格につくもの、(2) 奪格につくもの、(3)両方につくものがあります。
in は両方支配の前置詞であって対格とともに用いる場合、話題が「空間」であるとき「~の中へ」と移動の方向を示し、奪格とともに用いる場合、「~の中で」と位置を示します。対格も奪格も知らない。わずらわしい! と最初はだれもが(?)思います。そのうち、この使い分け、厳密さが、なんともいえず気持ちよくなります。
英語の「in」と意味が同じですが、より厳密な使い分けがなされています。そのうち英語は「あいまいな言語だな」といった気がしてきたら、あなたはラテン語の素質があります。ラテン語に向いています。「ラテン語おたく」になるのはもうすぐそこ(このサイトを覗いている人はその可能性が大)。
それでここではどっちの支配か? 文意からも見当がつきますが、正確には続く caelo と ecclesiaの格から判断します。どちらも奪格です(対格ならそれぞれ caelum, ecclesiamとなる)。
さて、文全体にもどれば、B は挿入句であって、直前の Verbum を補足説明しています。それで「なぜなら、みことばは“B(であって)”(Ipse以下)である」という構造の文です。これで二つの動詞 est の関係がわかるでしょう。
挿入句にあるDivinum は「神的なもの」、Verum 「真理」と訳します。大文字なので特別な真理と思えばよいです。訳出する上でそのことを強調したい場合「神的な真理」のように「 」でくくったりします。ここの訳文は「それは神的な真理である」となります。
最後の部分、Ipse は単独なら(主を指して)「その方」でよいのですか Dominus「主」といっしょになっているので主を強調していると考えましょう。小文字で「ipse」は「そのもの・それ自体」といった意味です。ここでは「主ご自身」がいいですね。
さて後半全体を訳せたでしょうか? 訳し、そして文全体の意味する内容を考察してください(宿題)。
この宿題をこなしたら、あなたは立派なスヴェーデンボリ研究者!
原典を読もう(『神のみことば』) No.3
まずは【宿題】の答え合わせ。(もちろん、同じ内容を意味する文でO.K.)
nam Verbum, quod est Divinum Verum, est Ipse Dominus in caelo et ecclesia;
「なぜなら、神的な真理であるみことばは、天界と教会の中で主ご自身であられるから」
ではこの文全体を通してみます。
quod postquam Verbum datum est Dominus per id solum Se manifestet, nam Verbum, quod est Divinum Verum, est Ipse Dominus in caelo et ecclesia;
「みことばが与えられた後、主はそれ(=みことば)だけを通してご自分を現わされる。なぜなら、神的な真理であるみことばは、天界と教会の中で主ご自身であられるから」
文は訳せました。さて、ここからが本来の学びです。ここから何を思いますか?
重要な真理が語られています。それぞれ汲み取ってください、以下に私の感想を述べます。
世の中に「主が現れた、イエスに会った」という人がいる。またひどい場合には「私がイエスだ」と名乗る人もいる。現われたから、会ったから、それで何なのか? 自分は特別に恵まれた人物だ、とでも言いたいのか? ここに、主はイエスはみことばを通してだけ現われることが書かれている。別の言い方をすれば、主に会うには、みことばに向かわなくてはならない。
正しい生活とともに、みことばを(人生の指針として)読み続けるとき、いつかそこに主が現れるのではなかろうか?
私は主に会いたいと望み、願うほど、清く正しく立派でもありません。聖書が目の前にあり、その霊的意味が明かされたことに満足しています。
再臨の主とはスヴェーデンボリの著作が明らかにした霊的意味なのです(これが新教会の教え)。
* * * * *
さて今や、あなたは原典までさかのぼって(この先はありません)スヴェーデンボリの思想にじかに触れ、そこに何が語られているのか思い巡らしました。りっぱなスヴェーデンボリ研究者と言えましょう。その他もろもろの知識はあとからついてきます。
では、次回までの【宿題】として次の原典に取り組んでみてください。やはり今は3回ほどじっくり読み上げ、内容の見当をつけるだけでO.K.です。何が書いてあるのかな、と思い巡らすときが一番頭を働かせるときであり、重要です。出典は遺稿『みことばについて(De Verbo)』の35番(原著は14番)。
Verbum naturale, quale est in mundo in Christiano orbe, intus in se continet et Verbum spirituale, et Verbum coeleste,
ややラテン語を知っていて、訳してみようという人のために「読解」の手がかりを述べておきます。naturale spirituale coeleste の三つの関連に注目してください。それと後ろのほうでてくる二つの「et」はただものではありません。「そして」や「~と」としては文意が汲めません。「et…et」で一つの意味をもっています。
原典を読もう(『神のみことば』) No.4
【宿題】の答えとしては、みことば(Verbum)の natural と関連して spirutuale, coelesete について、何か語っているな、と見当がつけば、それでO.K.です。
Verbum naturale, quale est in mundo in Christiano orbe, intus in se continet et Verbum spirituale, et Verbum coeleste,
文を眺めてみると、コンマが気になります。それでどれが頭でどれがしっぽかよくわかりません。ここで使われている動詞は est と continet です。これで頭としっぽがわかるのではないでしょうか?
コンマで区切られた quare est ~ orbe が挿入句となっており、Verbum naturale を補足説明しています。
長くなりそうなのでやはり学ぶのは前半だけとしましょう。まず単語の意味を調べます。
「naturale」このままでは辞書に載っていません(ここが初心者の苦しいところ)。形容詞naturaslis の中性・単数・主格です。
このまま次へ進もうと思いましたが、思い切って「形容詞」ついてやや述べましょう。
たいていの場合、形容詞は修飾する語の直後に位置します。ここでは直前のみことば(Verbum)を修飾します。そしてその「性・数・格」に合わせて、形容詞の「性・数・格」を一致させます(それで、形容詞がどの語を修飾しているかはほぼ明確になります。やはりここがラテン語の厳密なところ)。
「性・数・格」とは、性は「男・女・中」の3種、数は「単・複」の2種、格は「主・対・属・与・奪」の5種あります(呼格もありますが、主格と同じと思ってください)。
Verbum は中性名詞(その単数・主格)なので、形容詞 naturalis もそれに合わせて変化させて(ここが英語と違うところ)中性・単数・主格の形にします。それで naturale です。意味は「自然的な」。
「quale」関係詞(不変化)であり、意味は「~のような」。
「mundo」このままでは辞書に載っていません。「前置詞 in がその前にあるので対格か奪格に変化しているな」と思ったあなたはNo.2をよく理解しています。飲み込みが速く、記憶力もよいので、頭がきれるのではありませんか? ここは位置を示しているので奪格です。もとの形(=辞書形)は mundus で、意味は「(この)世、世界」。
「Christiano」英語に似ているので見当がつきますね。やはりこのままの形では辞書にありません。近所をさがすと形容詞 christianus あり、これです。mundus と同じ変化(第二変化といいますが、こんなこと名称はどうでもいいね)をして同じく奪格。意味は「キリスト教(徒)の」。この形容詞は次の orbe を修飾しているというよりも(それなら本来、直後の位置に来るはずです)、「christianus orbis」で一つのものと見なすほうが形容詞の位置から見て適切です。
「orbe」察しのよい人なら(chistianus と同じ変化をしているはずだから)、orb- の形をした名詞をさがせばよいなと思うはずです。さがすと「orbis」が見つかり、「球」などの意味がありますが、ここでは「世界」。「christianus orbis」(奪格)で「キリスト教界で」。
長くなったのでここで終わりましょう。前半を訳してみてください(宿題)。「est」は「ある」と訳してください。
もうひとつ宿題を出します。予習として、辞書を引いて(このサイトの「レキシコン」がよいでしょう)後半に出てくる「et」の意味を定めてください。