宿題について(雑感その1)

 ここで「原典を読もう」を掲載し始めた。(1)原典を読みながら、(2)ラテン語のあらましを知ってもらおう、(3)さらにスヴェーデンボリの神学思想についても考えてもらおう、と思った。
(1)原典については、「直截明快に書かれているな、原典って意外とわかりやすいな」と感じてもらえればよい。口で言うより、それを実感してもらいたい。
(2)ラテン語については、初心者でもついてこれるように述べているつもりである。しかし、英文法などの初歩的な知識は仮定している。ある程度のラテン語の知識を持っている人でも、基本事項の復習のようなつもりになってもらえればよい。
(3)神学思想については、いっしょに学んでいきたい。ここで述べていることは「私の把握したもの・感想など」であり、新教会の本流となる教義からずれるかもしれない(すなわち、私の言うことが「規範」ではありません。各自、学んでください)。いっしょに学ぶとは、いっしょに「考えること」である。
 さて、「宿題を出す先生は嫌われる」。なぜか、生徒は基本的に「考えたくない」からである。
 数学の授業でいろいろ説明する。すると、そこそこ聞いている。 (理解したかどうか)「では、問題をやってみましょう」となると、ぼけっと「息抜き」。ここからが本番であり、ほんとうに力がつくときなのに、勝手に休憩時間と決め込み、解いてみようとしないで、正解が出てくるまで待っている。
 (同じことを、「原典を読もう」の読者はしていませんか?)
 「宿題」は聞きっぱなしでは、忘れてしまうだろうから、家でもう一度「考えてもらいたい」から出す。考えるのが嫌な生徒はやってこないで「忘れました」となる。忘れたのは宿題ではなく、教わったことの中身。
 ここのブログで私が「宿題を出す(前代未聞?)」のは、少しでも「考える」きっかけとなれば、の老婆心から。(つづいて「雑感その2」では「ネットサーフィン」の危険性を語ろう)

コメントを残す