『遅読の讃』

前記の「遅読」で思い出すのは、関口存男先生の『遅読の讃』という一文です。このことばは50年以上前にすでに使われているのです。
「辞典と首っ引きでポツポツ読む外国語には、その遅々たるところに普通人の気のつかない値打ちがあります。それは“考える”暇が生ずるということです。…“人間”というやつは、とかく、考えないように考えないように出来ている。スラスラ読める母国語ばかり読んでいると、うっかりすると上わすべりした、ツルツルした、平坦な人間になってしまうおそれが充分にあります。
 この平坦なツルツルした意識にブレイキをかけて、否でも応でも一個所を凝と眺めて考えさせるという効果、―外国語をやる主な目的は此処にあるのではないでしょうか?」
1956年の記事で、私が読んだのはそれからずっと後のことです。とても、面白い文なので、全部読んでいただきたいと思いますが、まだ著作権が残っているので、部分的な引用にとどめておきます(『関口存男の生涯と業績』S42, 三修社・残念ながら入手困難!)。
関口存男という方は、語学の天才と呼ばれ、私の世代で、少し熱心にドイツ語を学んだことのある人なら知らない人はいないほどの凄い先生です。法政大学や慶応大学でドイツ語を教える前には、アテネ・フランセというフランス語の学校でラテン語を教えていたという履歴もあります。授業はフランス語で行なわれたそうです。終生、一度もドイツに行く機会はありませんでしたが、NHKラジオのドイツ語講座を受講したことのある人の話では、そのドイツ語はゲストのドイツ人とも遜色がないほど流暢で、驚いたということでした。
英語圏の斉藤秀三郎とならび称され、ドイツ語の関口存男と言われています。
若い頃、ドイツ語をいっしょに勉強していた私よりのかなり年長のある神学生に私が、「ほんの少しのドイツ語を理解するのに、何時間もかかってしまう」と私がぼやいたとき、「短い文章を何時間も考えられるなんて、君はすごい」と褒められたことがあります。
彼の発言は皮肉ではなく、やはり「遅読」の勧めだったように思います。

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