このサイトはスヴェーデンボリの原典を読むためにあります。眺めるだけでなく、実際に「学びましょう」。それには「前準備」などわきに置いて、すぐさま原典にかじりつくのが、一番よい方法だと思います。私はヘブル語をそうして習得しました。ともかく、わかってもわからなくても、実物にあたってしまうのです。やる気さえあれば、あとは何とかなります。
では今日の原典(わからなくても、ローマ字読みでゆっくり3度は眺めてください)。
(読む上での注意:qu は「クォ」、v は「ウ」です。それでVerbumは「ウェルブム」、あとは英語風ローマ字読みでO.K.)
quod postquamVerbum datum est Dominus per id solum Se manifestet, nam Verbum, quod est Divinum Verum, est Ipse Dominus in caelo et ecclesia;(AE594:3)
何か気づきましたか? ドイツ語みたいに途中に大文字がでてきますね。特殊な語だからです。
Verbum「みことば」、Dominus「主」、Se「ご自分(大文字なので「主」のこと)」Ipse「その方(大文字なのでこれも「主」のこと)。今後の学習でこの四つはよくでてきます。覚えてください。といっても、すぐ覚えてしまうでしょう。(Divinum, Verum は次回)
ここから、この文は「主とみことば」について何か書いてあるな、とわかります。今日は全訳を載せません。知りたい人は、出典個所を見てくださいそれは最後の AE593:3 です。
AE は Apocalypsis Explicata の略号であり、『黙示録講解』594:3です。
初心者にはちょっとわかりそうもないので、まずは文がどこで切れるか述べておきます(じつはこれが非常に難しく、これができれば半分わかったようなもの、この文の切れ目がわかることは、文章の組み立て、論理の筋道などがわかることであり、総合力が必要となってくる)。
manifestet と nam の間です。
この文ではじつは簡単です。接続詞が posetquam と nam の二つ使われているので、接続詞の前でいったん文意が切れるとわかります。
くわしいことは段々とやることにして、まずは quod、これは英語の that と思ってほとんど用が足ります。「それ」という意味がまず浮かびます、そしてこれが後半に出てくる quod の意味です。
「~こと」という意味もあります。文頭の quod はまずこの意味です。「(quod以下の)~のこと」。
postquam は接続詞で「~の後」の意味、ついでに接続詞 nam は「なぜなら」。
次は datum est これでひとつと思ってください。datum を辞書で引いてもでていません。いや出ていました。このサイトの「レキシコン」を引いてください。「贈り物」とありました(この語は do「与える」→与えられたもの→贈り物となったんでしょうね)。次の項目に datus があり、「do の完了分詞受動」とあります。どうやらdoの変化形だと見当がつきます。で、doを引けば、do dare dedi datum とちゃんとありました。文法を今は説明しません。意味は「与える」でよいとわかります。
ここは受動態で「与えられた」という意味です。最初のうちは厳密にやらないで、だいたいこんなものだなと把握するだけで結構。
前置詞 per は二通りの意味を知って入れば、まず用が足ります。「~によって」と「~を通って」。ここではどちらかといえば後者の訳語ですね。idは「それ」、solum は「~のみ、~だけ」。それで per id solum は「それを通してだけ」。
manifestet これも動詞なのでこのままでは辞書に載っていません。動詞かなと思ったら、近所の「-o」を探してください。動詞はほとんど「-o」の形をしています(ほかの形もあるが、今は述べない)。
manifesto「現わす」ですね。政党のマニフェスト(宣言書)はこれが語源ですね。ここは直説法・現在・三人称・単数です(今はこだわらないでください)。
ここまでで、前半終了。どんな意味でしょうか? やはり文の切れ目がわかりませんよね。est と Dominus の間で切ってください。「みことばが~後で、主は~現わされる」となります。quod は訳出しないでよい場合が多々あります。ここでも文がごちゃごちゃするので省きましょう。
もひとつヒントがないと初心者はむずかしいかもしれません。id「それ」が指す内容です。id は is の中性・単数です。急に「中性」なんて出てきても気にしないでください。名詞 Verbum は中性・単数です。
これだけ、学べばこの文章の前半の意味がなんとなくわかってきたはずです。「みことばが~後で、主は~現わされる」の「~」を補ってみてください(宿題)。
日: 2008年3月24日
遅読の勧め
「遅読」という言葉があるのかしらない。おそらく私の造語だろう。速読に対するアンチテーゼのつもり。
世の中に『速読法』の本をよく見かける。全然興味がない。内容によって読む速度が(自然と)変わってくるのは経験済みだからだ。ものを読むとき、それに適した速さがある。どうでもよいものをだらだら読むのは時間の無駄、そして逆説に聞こえるかもしれないが内容を把握したい時も早く読む必要がある。すなわち、ある内容を一定時間のうちに把握しないと、論理の筋を見失ってしまうからである。
しかし、「これは」といったものは、じっくり読む必要があり、そうしたとき、読む速さは遅く、一定している。『天界の秘義』を読んでいる時は、ある程度以上早く読むことはできないというよりも、一定の速さで読んでいることに気がついた。そして、しばしは思索にふけり、読書は中断する(補足すれば、工事なども適した速さがあり、工事を急ぐと、どこか無理をして、そこから欠陥を生じ、結局工事をやり直さなくてはならないハメとなる)。
わざとゆっくり読むことも必要だろう。一行読むのにどれだけ多く時間をかけられるか、試してみることである。道を歩く時、目的地へ急ぐことをせず、できるかぎり「道草を食う」のである。もうこれ以上同じ場所にとどまっておれない、と思ったら、先へ進む。こんな読書があってよい。
作家の太宰治は(「イスカリオテのユダ」などキリスト教を題材にして短編を書いている)「マタイ福音書」を読むのに一年かかったとのこと。はたしてどのような読み方をしたのか。
くどくなるが速読が無意味なことをつぎのたとえで示してみよう。美術館に行った。名画が展示してある。A君はそこで50枚鑑賞した。B君は3枚しか見なかった。どちらが「鑑賞」しただろうか? 枚数が問題にならないこと、鑑賞の速さが問題にならないことは明らかだろう。
ここで「原典を読もう」を連載することにした。おそらく1回で原典の1行すら読めないかもしれない。それでもよい。翻訳物を100ページ読むよりも、原典を1行読むほうが勝っていると思う。
急ぐことはない、ゆっくり道草しよう。急いだ先に何があるというのか? ゆっくりとは今を楽しむことに通じる(だらだらではありません、念のため)。
『遅読の讃』
前記の「遅読」で思い出すのは、関口存男先生の『遅読の讃』という一文です。このことばは50年以上前にすでに使われているのです。
「辞典と首っ引きでポツポツ読む外国語には、その遅々たるところに普通人の気のつかない値打ちがあります。それは“考える”暇が生ずるということです。…“人間”というやつは、とかく、考えないように考えないように出来ている。スラスラ読める母国語ばかり読んでいると、うっかりすると上わすべりした、ツルツルした、平坦な人間になってしまうおそれが充分にあります。
この平坦なツルツルした意識にブレイキをかけて、否でも応でも一個所を凝と眺めて考えさせるという効果、―外国語をやる主な目的は此処にあるのではないでしょうか?」
1956年の記事で、私が読んだのはそれからずっと後のことです。とても、面白い文なので、全部読んでいただきたいと思いますが、まだ著作権が残っているので、部分的な引用にとどめておきます(『関口存男の生涯と業績』S42, 三修社・残念ながら入手困難!)。
関口存男という方は、語学の天才と呼ばれ、私の世代で、少し熱心にドイツ語を学んだことのある人なら知らない人はいないほどの凄い先生です。法政大学や慶応大学でドイツ語を教える前には、アテネ・フランセというフランス語の学校でラテン語を教えていたという履歴もあります。授業はフランス語で行なわれたそうです。終生、一度もドイツに行く機会はありませんでしたが、NHKラジオのドイツ語講座を受講したことのある人の話では、そのドイツ語はゲストのドイツ人とも遜色がないほど流暢で、驚いたということでした。
英語圏の斉藤秀三郎とならび称され、ドイツ語の関口存男と言われています。
若い頃、ドイツ語をいっしょに勉強していた私よりのかなり年長のある神学生に私が、「ほんの少しのドイツ語を理解するのに、何時間もかかってしまう」と私がぼやいたとき、「短い文章を何時間も考えられるなんて、君はすごい」と褒められたことがあります。
彼の発言は皮肉ではなく、やはり「遅読」の勧めだったように思います。