レキシコンの必要性について(一般論)

 レキシコンが必要なことについて、一般論を述べてみます。
 だれかが使用する言葉は、辞書に載っている言葉とその語義全部ではありません(A)。また、辞書で定義される意味とはやや異なるニュアンスで使用しているかもしれません(B)。
 (A)その人が使用していない言葉がいかに豊富に掲載されていようと、無意味です。また、多くの言葉には何通りかの語義があります。英語で言えばmanといえば、大きく①「人」でもあり、②男でもあり、その他にも、文脈の中などから、いろいろな意味を持っています。人は当然ながら、その全部の語義を使用するのではありません。限られた語義だけを用います。そのとき他の語義は不要です。すなわち、レキシコンには余分なものは掲載されていなくて、「実際に用いた意味」だけが掲載されています。
 (B)すると、通常の辞書から不要部分を削除しただけの「薄いもの」となるでしょうか。なりません。
 辞書に載っている意味とはやや異なる意味(ニュアンス)で使用しているかもしれません(これが問題です)。また、通常の辞書には掲載されないような特殊な用語や、場合によってはその人の「造語」を使っているかもしれません(スヴェーデンボリの場合はヘブル語の音訳、解剖学からの用語など)。綴り(スペル)違いですら、研究対象になるかもしれません。そうしたこことから「見出し語」は増えます。
 それ以上に問題となるのが「語義」です。たとえば「愛」という言葉なら、この言葉から感じ、受け取るものは人それぞれで違います。それで他人が「愛」と語るとき、この人は「どのような意味で愛という言葉を使っているのだろうか」と思いながら(確認作用)その話を聞きます。この確認作業は「著作」で言えば「文脈」です。また他の個所での使用例(用例)です。
 
 これが他国語(ラテン語)なら、そのようなニュアンスをわきまえた上で「訳語」をけっていしなければなりません。そうしないと、「真意」が伝わらないまでも、ぼやけてしまいます。
 以上から、「レキシコン」では「用例」が重要で、必要不可欠なものとわかるでしょう。
 これまでレキシコンに取り組んできましたが、語義や用例だけを訳すのではなく、その用例周辺の文脈全体から、また他の個所での使用例から訳語や例文の訳を定めるようしているので、とんでもない労力がかかっています。辞書作りの大変さを(たっぷり)味わっています。でも、苦痛ではありません。私にとって学びであり、チャレンジです。

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